アダルトチルドレンの生命力

アダルトチルドレンの克服を綴る日記です。

許さない気持ちがあってこそ、私は私になる

数日前のEMDRの後から、子どもの頃のことがよく思い出される。

 

また、「俺は俺でいいんだ」みたいな気持ちと一緒の生きている実感が出てくることがあれば、その逆になることもある。

 

たまに、泣きたい気持ちになったり。

 

なんともない日々を過ごしているはずなのに、混乱に巻き込まれてしまっている感じだ。

 

 

副作用みたいなものかもしれない。

 

しかし、私に変化が起きていることだけは確かだと思う。

 

自分の人生を取り戻せるなら、副作用も喜んで受け入れよう。

 

楽ではないけど、私は耐える。

 

 

一方で、今日も親について少し書こう。

 

私は、親を許さない。

 

親が子どもの頃の私にしたことについての、理由は問わない。

 

私が自分の人生を生きるためなら、許すことは無理である。

 

 

今思えば、私が気づくべきだった一丁目一番地は、この「許さない」という気持ちだったのではないだろうか。

 

それが紛うことなき本心であり、その気持ちがあってこそ、私は私になる。

 

親のしたことは理解できないけど、理解する必要もない。

 

親に合わせてあげる必要はない。

 

親を精神的に満足させてあげる必要もない。

 

そんなことは、私にはもともとできないことだったのだ。

 

 

私の親が、子どもの頃の私に望んだことは、すべて自分を満足させるためであった。

 

それで満足するはずはないのだけど、とにかく自分(親)が周囲から承認や賞賛を得るためのことを、私にするよう求めた。

 

勉強しなさい。

 

きれいにしなさい。

 

大人しくしなさい。

 

それらは、立派な大人も子どもに向かって言うことはあるだろう。

 

しかし、私の親はそれを自分自身が恥ずかしくならないためだけに言っていたのだ。

 

 

そう、すべてが自分優先。

 

私がああしたいこうしたいと言っても、自分(親)がわからなかったり興味がなければ「やめときなさい」。

 

ちょっとでも自分の理解を超えれば、それを理解しようともしない。

 

一方で、自分(親)の言うとおりに私がしないと、ムキになって怒りだした。

 

 

その上、私が直接関係ないことでも、あの人はああだこうだのと批判や愚痴ばかりを言う。

 

私は、そんなことばかりを聞かされて、育ってきたのだ。

 

 

バーっと親の概要だけ書いたけど、今は不思議と怒りの気持ちはない。

 

元々相手にできない人であったのは間違いないわけで、それがハッキリわかったら、これらの過去に対する怒りの気持ちなぞなくなった。

 

今の今、親が昔と変わらないことをすればちょっとイラっとするけど、まともに相手をしなければいいだけである。

 

 

親のことは親のこととして、今日の最後にもう一つ。

 

前に比べるとさらに自分の感情の確かさを感じる瞬間が増え、またその度合いも上がったと思う。

 

どちらも、どのくらいかと仮に聞かれたら「少し」と答えるレベルだと思うし、おそらくまだ、登らなければならない階段はある。

 

アダルトチルドレンの克服に向けて、この先どういう展開になるのかはわからないけど、地道に頑張っていくしかない。