アダルトチルドレンの生命力

アダルトチルドレンの克服を綴る日記です。

負う必要のなかった、子どもの頃の傷や負い目

こんにちは!

 

ケミオです。

 

 

やっと、温かくなってきました。

 

まだ朝晩は冷えますが、もうすぐ春ですね。

 

個人的には、自分の外の動きに、今年は目を向けられそうにないですが…。

 

 

アダルトチルドレンの克服の大変さを、実感しています。

 

あっけなくできた人もいるのかもしれませんが、ここまでのところ、私にとっては簡単ではないです。

 

 

自分の内面と、強引にフタをしていた過去に、「これでもかっ!」と向き合う。

 

すると、やっぱり溢れる思いとか、そういうのがあるんです。

 

私は泣くまではいかないのですが、やはり辛く悲しい気持ちになります。

 

子どもの頃の心境が思い出されても、その後に続いた苦しみや困難を考えても。

 

胸が痛くなり、呼吸が浅くもなります。

 

そうした身体症状を自覚すれば、過去がどれほどきつかったかということと、そのトラウマがどれだけ強烈かということを、否応なく実感させられます。

 

 

ただ、今は私をそんな風にした親に対する怒りは、まだゼロとは言い切れないですが、ほぼありません。

 

アダルトチルドレンの克服に取り組み始める前までは、突然むしゃくしゃする怒りがやってきていたことを考えれば、かなり進歩したと思います。

 

そして、その進歩の過程においては、親の見方に対する変化もあります。

 

 

今思えば、取り組み前までは「親は正しい、絶対だ」という潜在意識がありました。

 

またその潜在意識は、「私は弱くみじめで、自分の希望など持ってはいけない存在だ」といったような、これまた潜在意識とセットです。

 

 

これらが揺らぎ始めているのがちょうど今の段階だと思いますが、すると親そのものが絶対ではなく、客観的に見え始める。

 

するとこの人(=親)は、私に対して子どもの頃にしたようなことをする以外、できないんだろうなと思い始めました。

 

 

当然、過去は覆すことはできません。

 

一方で、今から過去の反省を求めるようなことは、やろうと思えばできます。

 

 

しかし、求めたところで、理解できる親ではないんです。

 

口では「悪かった」などと言うと思いますが、本当の意味で理解しないだろうというのは、昔と全く変わらない様子の親を見ても、そう考えざるを得ません。

 

そもそも、言って理解できる人だったら、私がアダルトチルドレンになることもなかったんだろうと、今では思います。

 

 

また、そんなことを考えると、私が過去に負った傷というか、負い目というか、そういうのも傷でもなんでもないんではないかと、思い始めています。

 

親に毎日のように反抗したり、徹底的に無視をしたり。

 

「そんなこと、したくはなかったのに」という心の傷と負い目が、今思えばあったんです。

 

でも、親がどうにかしていたんだということになれば、そんな傷や負い目は全く必要のないものです。

 

むしろ、私は子どもながら生きるために、必死で正しいことをした。

 

もちろん、そもそもしたくないことには変わりはなく、本来は全く不要なことです。

 

ただ、私は何も間違っていなかった、ということは言える。

 

 

なお、反抗や無視なんていうものは、思春期くらいの子どもがすることは、全く珍しくないでしょう。

 

ただ、私の経たそれは、そういう次元とは全く異なります。

 

とにかく、親の幼稚さに付き合わされて、そうなってしまったんです。

 

今日は割愛しますが。

 

 

今の私は、色々辛抱です。

 

でも、くじけないようにします。

 

 

お疲れさまでした!