アダルトチルドレンの生命力

アダルトチルドレンの克服を綴る日記です。

最後の最後の罪悪感みたいなものを、あと少しで…

先日、数年ぶりに学生時代の後輩に会った。

 

数年ぶりと言っても、10年経っていたかもしれない。

 

とても久々で、やっぱり歳を取ったんだなと思った。

 

きっと後輩も私を見て、同じことを思っていただろう。

 

 

その後輩も、私と似たような苦労を色々重ねてきた男であった。

 

だから、私が今こうして取り組んでいることを話しても、おおよそ理解する。

 

もちろん、お互い望んでそうなったわけではないし、似たような苦労をしたから交流しているわけでもない。

 

とりあえず、元気そうでよかったし、私も元気に復活したいと思う。

 

 

それはそうと、今日は冷静に、私の子どもの頃の状況はどんなであったかを、振り返ってみたい。

 

と言っても、ほとんどこれがそのままだなというのがあったので、引用して。

 

端的に挙げてしまうと、こういうことであった。

 

  1. 否定されて育った(虐待を受けた)
  2. 褒められる・認められる機会が少なかった
  3. 自分で選択する機会が少なかった
  4. 過保護に育てられた
  5. 子供時代に甘えられなかった
  6. 子供時代に親が話をあまり聞いてくれなかった
  7. 常に親から言い返されていた
  8. 親のDVまたはモラハラを見て育った

『心理カウンセラーの種』, https://be-counselor.com/self-affirmation

 

この中で、ちょっと違うかなと思うのは、8番だけである。

 

リンクにもっと詳しくは書いてあるけど、記事を読んで、それ以外は本当にそのままだったなと思ってしまった。

 

 

なぜそんな状況になってしまったかは、この記事にも書いてあるけど、親の自己肯定感が低いからである。

 

私なりの見方を加えるなら、親が子どもっぽい。

 

今も私は親を間近で見ているけど、その昔と変わっていない言動を見て、この人の下では健全に育つのは無理だよと、納得しかけている。

 

 

「納得しかけている」としたのは、最後の最後に残る、罪悪感みたいなものがあるからだ。

 

親を、そんな風に決めつけてしまうことへの罪悪感。

 

しかしそろそろ、そんなものは払拭してしまいそうだけど。

 

どう論理的に考えても、私が健やかに育つのは無理なのである。

 

 

ちょっと話が飛躍するけど、中学生の頃だっただろうか、そんな親に対して私は、徹底的に無視の態度を取るようになる。

 

殴りかかりこそしないものの、殴りたい気持ちで一言も話さなくなった。

 

それは、当時はそこまで明確に意識していなかったけど、「お前、なんかおかしいんじゃないのか」という、無言のアピールであった。

 

そんなアピールをしたところで、理解することはできない親であったけど。

 

 

そんな記憶にもフタをしていて、しばらく思い出すことはなかったけど、ここ最近の一連の記憶の掘り起こしで思い出しては、私はそうするほかになく、正しい対応を取ったと思うのである。

 

これについても、最後の最後の罪悪感みたいなものは、まだあるけど。

 

とはいえ、もうちょっとで払拭しそうだ。

 

どう考えても、先に挙げた8つ(のうちの7つ)の状況は、おかしかったのだから。

 

一つ一つ思い出されることは、今日は書かないけど。

 

 

話は逸れるけど、こんな風に親について書いても、もう怒りの感情はなくなってきた。

 

怒りがあったところで、こんな私を親が理解できるわけでもないし、そもそも理解できないような親だからアダルトチルドレンが生まれるのである。

 

これは、いい傾向だろう。

 

一つの壁を、クリアした気がする。

 

ただ、そうであったとして、今の私については現実的な問題がまた一つ、生まれることになるのである。

 

これについては、機会を改めて書きたい。