アダルトチルドレンの生命力

アダルトチルドレンの克服を綴る日記です。

「自分は自分でいい」が当たり前になっている?

今年最初のEMDRは、昨日だった。

 

今年と言ったって、もちろん来年やるつもりはないけれど。

 

 

昨日のセッションは、昨年末にやり残したトラウマの解消。

 

結果を言えば、目的を達成した。

 

トラウマの中身を書くと長くなるので改めるけど、アダルトチルドレン克服の階段を、何段か上がった気がしている。

 

 

EMDRは、それなりにお金がかかる。

 

時間も必要だ。

 

私の場合、仕事の条件は最低にしてでも、EMDRに必ず行くことにしている。

 

お金と時間において、引き換えに得られないものもあるが、ここまでくれば効果はあると断言して良いだろう。

 

あくまで私の場合、ではあるけど、やってよかったと思い始めている。

 

 

今は、「自分は自分でいいのだ」という気持ちが強くなった。

 

いや、「強くなった」というのは、ちょっと違う。

 

「当たり前に持てるようになってきた」と言った方が正しいだろう。

 

笑ったって怒ったって、悲しんだって面倒臭いなと思ったって、いいのである。

 

 

私は親に合わせながら、自分のそうした気持ちは否定するよう教育され、育ってきた。

 

否定する以外の生き方は考えられないまま、ここまで来た。

 

なんだかいつも、生きることのしんどさを抱えていたのに。

 

 

しかし私は、親に合わせることはない。

 

進んで対立する必要も全くないけど、価値観も思考回路も能力も全然異なるのだから、それぞれ好きにしていればいい。

 

私は親の世界を壊さないが、親にも私の世界を壊させない。

 

それがお互いを尊重する、大人というものだろう。

 

親が私の世界を壊しにかかるようなことがあれば、それはキッパリと拒否するだけだ。

 

 

そういえば最近、こち亀をちょっとずつ読んでいる。

 

やはり、面白い。

 

これは私の素直な気持ちだし、実はこち亀で学べることもそこそこあると思っている。

 

昔も今も、マンガは色んな意味でいいメディアだ。

 

しかし同時に、昔も今も、そんなマンガの世界や楽しみ(あくまで私の考える、であるが)を、親は全く理解しようとしない。

 

べつに今、理解してほしいなどとは寸分も思わない。

 

ただ、マンガを楽しむ自分自身について、なんか親の期待と違うことをしているという罪悪感みたいなものが、ずっとあった。

 

そういうのが自分の中のあらゆるところに点在していて、結果、自分が生きている感覚にも乏しくなったのが、私の姿であった。

 

 

またまたそういえば、子どもの頃、楽しんでいたマンガを目の前で、真っ二つに引き裂かれたことがあった。

 

その時は泣いて悲しみ、心に傷を負った。

 

それが次のEMDRで解消に取り組むべきトラウマかは、先生に相談だ。

 

ただ、ここまでのEMDRで、なんとなくもう解消されている気もしている。

 

仮に今の私が、その時の親に言うことがあれば、「あなたそんなことする権利あるの?ちょっとおかしいんじゃないの」である。

 

呆れながら言うことだろう。