アダルトチルドレンの生命力

アダルトチルドレンの克服を綴る日記です。

面倒くさいなら面倒くさいでいい

今日は、EMDRカウンセリングの日。

 

前回の続きで、ちょっとだけ残っていたトラウマの解消に取り組んだところ、それは順調にコンプリート。

 

kenmental.hatenablog.jp

 

このトラウマは、消えた。

 

私は、私で良い。

 

私が望むものは、望んでもいい。

 

 

それが終わったら、次のトラウマへ。

 

これについては、改めて書きたいと思う。

 

 

ところで、EMDRの第一目標は、トラウマの解消で間違いないと思う。

 

しかしEMDRをやっていることで、だんだん自分の本心というものも、明らかになってきた気がする。

 

 

これまではトラウマの解消とは別に、自分の本心は何なんだろう?と探り続けていた。

 

そうではなくて、トラウマの解消と自分の本心の表出は、コインの裏表みたいなものかもしれないと思い始めた。

 

以前はふわっとしていた、自分自身で思ったり感じたりすることに、だんだん自信がついてきた。

 

 

例えば、EMDRの中で必ず登場する、母親について。

 

要は私は、ただ面倒くさいのだ。

 

母親のつまらない、暗い話の相手をするのが。

 

 

実際にはべつに相手はしていないのだが、母親を隣にして、これまでは怒りや恐怖といった不快な感情にスッポリ覆われていたところが、ただ単に、堂々と面倒くせぇなという感じになってきた。

 

母親の傍若無人な話し様は、私を含め、家庭内なら受け入れられると思っているのかもしれない。

 

しかし、私は受け入れていない。

 

血縁関係がなく、暗い話ばかりをし、いつもマウントを取りたがる母親のような人がいたら、私はずっと一緒にいることはまずないであろう。

 

自然と距離を置くようになるはずだ。

 

 

そして、大切なことは、面倒くさいなら面倒くさいでいいのである。

 

だって、面倒くさいのだから。

 

本心は、それで間違いない。

 

しかしこれまでは、そのように思わないよう、自分の心にブレーキをかけていた。

 

そしてそのブレーキは、母親に対して思うことだけではなくて、ありとあらゆるものごとに対して思うことに広がっていた。

 

そのことも、だんだんよくわかりはじめた。

 

 

生きている以上は、できるだけ前向きに、明るくいたい。

 

しかし母親といても、全くそうはならないばかりか、まともに相手をするなら「そうだね、そうだね」と、理解してあげるフリをしなければならないのだ。

 

私は子どもの頃に、自分の気持ち殺してまで、ずっとそのようなことをしてあげた。

 

だから、もうしなくていいだろう。

 

怒りや、恐怖を感じる必要もない。

 

まだできないが、母親が話したりやったりすることにいちいち心を乱されず、適当に流せるようになればいいんだと思う。