アダルトチルドレンの生命力

アダルトチルドレンの克服を綴る日記です。

恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい…に引きずられて

今は、本来であれば色々やりたいことを、我慢している。

 

 

我慢と言っても、べつにそんな大層なことをではない。

 

例えば週に一度ラーメンを食べに行くとか、そんな程度のこと。

 

理由もこれまた大層なことではなく、今はお金の入りが少ないというだけのことである。

 

 

とはいえ、それが何か苦しい思いにつながっているかといえば、そうでもない。

 

なんとか生きられているだけマシだし、自分はまだ恵まれている方だという思いさえする。

 

以前であれば、というよりアダルトチルドレンの克服に向けて動き出したつい最近までであれば、自分だけがひどい目に会わされているように感じ、ふつふつと怒りが込み上げてきたであろう。

 

その先には、親がいる怒りである。

 

 

やはり、EMDRでトラウマは解消されている。

 

きっと、このまま続けていけばいいであろう。

 

 

ただ、トラウマの解消はEMDRでいいと思う一方で、では私自身はいったい何を思ったり考えたりしているのだろうか?

 

普通の人からは、「それはあなたが思うことでしょう」と言われるよりほかはないように思うが、長く親の支配を受けていた私は、それに確信が持てないのである。

 

「何かを思ったり考えたりするとき、自分自身ではなく、親が思いそうなことや考えそうなことが、顔をのぞかせてくる」と言えば、イメージされやすいかもしれない。

 

 

それに関連して最近、他人からどう思われるかばかりを気にする母親に、言ったことがある。

 

「そんなのべつに、恥ずかしくもなんともないだろう。堂々としていればいいんでないのか?」と。

 

他人の目を気にしてばかりでは、面白くもなんともないし、弱々しい。

 

これは私が素直に思ったことだから、あえて言った。

 

母親は「えっ!?」ってなるが、私にしてみれば何をかいわんや。

 

「同じことを考えていると思っていたのか?」とまでは言わないが、思っている。

 

 

これを、言わなければどうなるか。

 

家庭も私も、恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい…に引きずられて、同じ思考回路になってしまう。

 

実際、そうなってしまっていたのが私なのであるが。

 

まだ世の中を知らない子どもの頃に、それは恥ずかしいんだと信じ切って、同じ思考回路を身につけたままであった。

 

「洗脳されていた」のとほとんど変わらないか、同じだと思う。

 

 

話は戻り、またしばらくすれば、やりたいことはできるだろう。

 

いや、しばらくというほど、遠くない先かもしれない。

 

なんとなく、そう思っている。