ここのところ、「幸福」にまつわる気づきを色々書いてきた。
それを求めるのは、私も人間である以上、当然だと思う。
しかし、このように書くと大変おかしな話だが、長らく私はその当然を否定して、自分など幸福になるにふさわしくない人間だと考えていた。
今はその認識が、ちょうど変わったところではないだろうか。
すごく簡単に言えば、これからは自分の本心に従って、前向きに生きたいのである。
しかし、「ではさっそく今からそうしましょう」でその通りにできるかと言えば、不可能だ。
言うは易し、行うは難し。
私の場合は解離的な症状もあるし、cPTSDだ。
気持ちの持ちようだけでなんとかできるものではなく、まず治療をしなければならない。
そして治療となると、私の場合は必ず向き合わなければならないのが、子供の頃の家庭での出来事。
しかし、これが難しい。
なぜなら、30年に渡り抹殺しようとした出来事だからだ。
人間誰しも、嬉しかったり楽しかった出来事の記憶は、喜んで思い出すだろう。
しかし、私が思い出さねばならないのは、悲しくて辛い、かつ今の残念な結末に至っている出来事の記憶である。
そんなもの本当は、思い出したくもない。
でも思い出して整理して、ケジメをつけなければ、「自分の本心に従って前向きに生きること」はできないのである。
しかし、思い出すと言っても、今も強く残っている記憶は、母親と口論して私が泣かされているといったおぼろげなシーンばかりで、その原因となる出来事はいくつかしか記憶にない。
記憶にないことはいいのか悪いのかわからないが、とかく頻繁にそんなことがあり、悲しい思いばかりをしていたことだけはよく覚えているのだ。
ここまで書いて思ったことだが、記憶にないということと、そんなに頻繁に泣いていたということは、その原因となる出来事はきっと大したことではなかったのであろう。
そんなにいつも悪いことをしていた覚えは、ないからである。
あまり取るに足らないことを、揚げ足を取られるように責め立てられて、反抗したら泣かされていたのではないかと、そんな気がしている。
であれば、自分では理由を今もって理解できないことを、自分でどうケジメをつけるのか?
それはもしかしたら「ケジメ」とは全く別物なのかもしれないが、とにかく何かしらの決着をつけることは、簡単ではないと思っている。