昨日、自分の作ったご飯をうまいと思った。
べつに、誰彼に振る舞えるクオリティのものができたというわけではない。
ただ、自分の満足できるものを、自分でできただけの話。
しかし、何年も自炊はしていたもののこんな感覚は初めてで、テレビに目を向けながら食べている時に、ふと、そんな感覚がやってきた。
しかも、食べていたのは一昨日に食べたものと同じ。
一昨日は、「味はどうだったろう?」なんて考えて、やっと「カツ丼はイマイチ」みたいな感想が出ただけだった。
一昨日の考えた感想と、昨日のふと出た感想が逆なのは、自分でも不思議に思う。
それはともかくとして、ふと感想が出てきたこと自体が、なんか嬉しかった。
ご飯もカツも、サラダも味噌汁もリアルに見えた上に、心から味を感じられた気がした。
これまでは、食べ物であれば味も見た目も「なんとなく」だったのである。
いや、基本的にはそれは今も同じだが、時たまなんか、フッと沸き出る気持ちがあったりする。
しかし、そんな経験はもう長くしていなかった。どんな経験かも、全く忘れてしまっていたようだ。
ずっと、
なんとなく思う
なんとなく感じる
なんとなく見ている
なんとなく聞いている
みたいな感じで、自分に対する現実感がなかった。
だから、感想を聞かれてもうまく出てこなかったし、まして自分からそれを言うことなんてできなかった。
そういえば、である。
私は他の人が覚えていたことについて、「あれ?そんなことあったっけ?」状態だったことが多い。
それは、特に覚えていなくても支障はないことで、例えば草野球の次の対戦チーム。
他の人は、前に試合したことがあるとか、それがいつぐらいだったかを覚えていて、話していたのだ。
試合内容のことや、ユニフォームのことや、どんなピッチャーだったなんかも。
ところがそうしたことについて、私は何も覚えていなかった。
もちろん、草野球は趣味程度のことだから、べつに覚えていなくても生活に支障はない。
しかし、そんな程度のことであるだけに、なんで他の人が覚えているのか、私は不思議に思ったのである。
みんな、そんなことを頑張って記憶しようとしたのではないはずだ。
それだけに。
おそらくであるが、私は自分のしていることが終始「なんとなく」だから、それを自分ごととして記憶していない。
いや、記憶していないというより、物理的には私がその場にいて経験していることでも、私自身は見たり耳に入っていることを経験しているという認識がない。
それは経験していないのと同じで、経験していないのなら、そもそも記憶する対象にもならない。
記憶しているのは、しなければならないことだらけ。
それは、他人から言われたことであったり、自分で考えたことであったり、あるいは無意識にそう判断していることであったりするわけだが、とにかくそんなことばかりを事細かく膨大に記憶して、保存している。
私のメモリーはそれで、いつもパンパン。
現実感の乏しさ、自分に対する信頼感の欠如は、こんなところにも繋がっていると思う。