まだなにかに怯えているのか、ふと顔に力が入っているのを感じる。
とはいえ、まだそれに気づくだけでも進歩だと思うようにしよう。
そして一方では、先ほど外を歩いた時、そこに確かな自分の存在を感じて、生きてるっていいことなんだとふと思ってしまった。
風の心地よさを感じる、綺麗な空が見える、それは自分である。
バカバカしいと思われるかもしれない。
しかし私はまるで死んだように、そんな感覚はずっとなかったのだ。
そう考えると、自分は30年も何をして生きてきたのだろうとも、思ったりしたけれど。
そんな私が、自分を殺してしまったメカニズムを、実体験をもとに整理してみる。
まず、私が小さい頃に、母親から毎日のように言われていたのは、次のようなことであった。
〇〇しては、いけません
〇〇しなさい
なんで〇〇じゃないの
〇〇君みたいになりなさい
それは一体全体、私の感情や意志を顧慮することなく、また他の人(母親自身を含めて)を基準にして行動するよう求めるもの。
当時、はっきり意識したわけではなかったが、「では自分自身はどこにいるんだ?」となっていったはずである。
その証拠にもなろうが、一方で私は母親に、自分自身の意思や気持ちは言っていた。
すると意見がぶつかるが、当然、いつも折れなければならないのは弱い立場の私である。
結局、自分の意思や気持ちは、構わず無視される毎日。
意思や気持ちは、自分という存在そのものでもあろう。
それが無視され否定されることが続くことで、私は自分自身で思ったり感じたりすることを自ら否認し始めた。
そして思ったり、感じたりすることを、自ら禁じた。
自分で自分を、殺してしまった。
今だからすごく客観的に考えられるが、母親は大人が本来持つべき自信が無さすぎた。
だから、誰もが羨むように私を育てて、自信を得ようとしたのである。
私は立派な母親よ、と。
しかし結果は、自信の無い大人の再生産。
言うまでもなく、私である。
再生産と書いたが、間違いなく母親自身がアダルトチルドレンであった。
アダルトチルドレンは連鎖する、とは聞いているが、何もしなければその危険は大いにある。
私は実体験をもって、それを思う。
今となっては、母親自身がアダルトチルドレンであることは、自分にこれ以上害がない限りはどうでもいい。
とにかく私は、自分を取り戻して生きなければならない。
精神的に健常に育った人は、「親には面倒を見てもらった恩もあるだろうに」と思うかもしれない。
しかし、そんなことを考えては、私は自分を生きられない。
そこは、私のような経験をしない限り、きっと理解できないと思う。
私自身、このメカニズムを30年もわからなかったのだから。