アダルトチルドレンの生命力

アダルトチルドレンの克服を綴る日記です。

幸福になったっていいのである

アダルトチルドレンを克服する、という目的のためだけに書いているこのブログ。

 

不思議なもので、書き続けていると今の自分自身につながる出来事が、次々と思い出される。

 

それらは思い出したくもないし、振り返りたくもないことばかり。

 

というより、私は子供の頃自体を無くしたいと考えていたように思う。

 

 

しかし、今の自分というのをハッキリさせる上では、子供の頃も避けて通れないのだと、今ではとても強く思う。

 

逆に言えば、子供の頃を振り返らなければ、アダルトチルドレンは克服できない。

 

いつまでも感覚や考えることに現実感がなく、生きづらさを抱えたままになる。

 

 

ただ、悲しくて辛い記憶ばかりが蘇り続ける中にあって、ちょっとでも幸せを感じた出来事はなかったのかと自問もしてしまった。

 

昨日、Jリーグチップスを食べていた短い時間は、ちょっとした幸せだったかもしれないと書いた。

 

それと似たようなことを考えれば、ビックリマンチョコか。

 

どちらも、おまけがついてくる。

 

それはカードあるいはシールだが、封をあけるまで何が出てくるかわからない。

 

既に持っているのが出てきた時の、ガッカリ感。

 

特別版みたいなのが出てきた時の興奮。

 

そうしたものは、私と友人の間だけで味わうことができた、楽しくて幸福な時間だったろう。

 

それは、親が入ることは許されない、ワンダフルな時間。

 

子供の頃の私にも、幸せな時間はあったのだ。

 

 

しかし、これがアダルトチルドレンである私の厄介で面倒臭いところだと思うが、そうした幸福を感じたり思い出したりすることに、なんとなく罪悪感も感じるのである。

 

自分が幸福を感じてはいけないのだと無意識に考えていて、心をブロックしている感がある。

 

幸福を感じることに、慣れていないのである。

 

 

意味がわからないという人もいると思うが、今なら自分だってそれは変だと心底思う。

 

また、「幸福に慣れていない」というのは、最も悲劇的な自分自身の客観的記述のような気もした。

 

もちろん、そんな自分は手放していい。

 

それに気づけて、まずはよかった。