アダルトチルドレンの生命力

アダルトチルドレンの克服を綴る日記です。

これから生きる上で、最も大切な考え

見える!

 

新米のツヤが!

 

 

以前であれば、白米の見た目など、まるで気にかけなかったと思う。

 

食べるものはすべて、生体を維持するためだけのもの。

 

ロボットのように箸で救い、口に運ぶだけだった。

 

味も、ただ食べられる程度に受け付けられればOK。

 

美味しくて幸せ、みたいな感情もへちまもなかった。

 

 

おかずも残っていた野菜だけで適当に拵えたが、ちゃんと味わって食べられた。

 

これまで何度も作って食べたものと同じだったが、食べている時の感覚がちゃんとあったのは、自分に起きている変化かなと思う。

 

 

夕食はそんな感じであったが、特に予定もなかった今日はよく、「私は幸せになってもいいのだ」ということが頭をよぎった。

 

ここ2、3日も、そんなことをよく書いていたけれど。

 

おそらくそれは、私にとってかなり大事な発見だったように思う。

 

 

なぜなら、アダルトチルドレンである私自身はずっと、その全く逆をいく思考をずっと持ち続けていたからだ。

 

「私は幸せになってはいけない」と。

 

もちろんそれは、無意識にである。

 

無意識であるために、自分でもそんな思考を持っていたことはわからなかった。

 

しかし、「私は幸せになってもいい」ことに気づいたと同時に、そのこともよくわかった。

 

 

気づいたところで、まだ馴染みのない考えだし、どうしたらいいのかも不明だ。

 

確かなことは、私は親から「幸せを感じたり望む気持ち」も取り上げられていたこと。

 

「私と同じように不幸になりなさい」と暗に命ぜられ、その通りにここまで生きてしまった。

 

「幸福追求権」は日本国憲法第13条にあるが、親というものは、憲法より絶対的な存在らしい。

 

 

ともあれ、これから生きていく上では、「私は幸せになってもいいのだ」が最も大切な考え方になろうと思う。

 

もちろんこれまでだって、聞かれたり書いたりすれば「幸せになりたい」だったはずだ(幸せになりたいですか?などと聞かれることはなかったが)。

 

しかし、幸せなど自分には相応しくないと無意識に考えていたと思うし、現実世界でそれが実現し得るような感覚も持っていなかった。

 

でも、今日はご飯が美味しく感じられて幸せだった。

 

 

それは、間違いなく現実のこと。

 

たまには、特別な何かで幸せを感じることも素晴らしいだろう。

 

ただ、今の私には、日常のささやかな幸せを感じる方が大切だと思う。

 

ご飯がそんな時間になって、よかった。