ブログの間が、空いてしまった。
書くのを忘れていたわけではない。
引越しがあり、ブログどころではなくなったのだ。
これがなかなかハードで、何日か経った今も疲れが取れない。
移動も長距離だったし、もうこんなことはしたくないとも思うが、いずれもう一度、引っ越しをしなければならない。
というのは、実家に戻ってきたからだ。
しかし、ずっと実家にいる気はさらさらないから、アダルトチルドレンを克服できたらまた引越しをする。
もう、そんなに遠い移動はしないだろうから、今回よりは楽だろうけれど。
とはいえ、アダルトチルドレンは親に問題がある。
そんな親の元へ戻るなど、おかしなことではないかと思われるかもしれない。
そのあたりは、自分としても悩んだ。
ただ、最終的には今の自分で使える環境はすべて使い、まずアダルトチルドレンを克服することのみを最優先する。
そう決めた。
しかし本当のところは、色々な状況が重なった結果、そういう選択をせざるを得なかった、というのが正しい。
仕事、地元、克服環境…、それを詳しく書いてしまうと話が長くなり、ここでは割愛したい。
ただ、また登場したのが「そういう選択をせざるを得なかった」こと。
前に書いたが、アダルトチルドレンであり、現実世界では自分不在の私が何度も経験したことである。
もう一度書く。
「そういう選択をせざるを得なかった」
苦し紛れにそんな状況になるのは、もう金輪際やめにしたい。
そのためにも、やはりアダルトチルドレンの克服が、私には必要である。
しかしながら、一時的とはいえまた毒親と一緒に暮らすことは、その妨げになりそうなものである。
それが、意外とそんなことはないぞ、と思っている。
確かに、母親は昔と全く変わらず不平や愚痴をこぼしまくりであり、一方で他人からどう思われるかどうかばかりを気にしている。
そこはハッキリ言って、一緒にいて気分が悪い。
しかし、そんな母親を間近で見ることは、なぜ自分がアダルトチルドレンとなり、こうも生きるのが苦しかったのかを考える、非常によい材料なのである。
また、これも大切だが、私は適切なカウンセリングも受けられている。
まだ十分とは言えないけれど、見方や考え方の親の支配からは抜けられつつある。
物事を自分自身の見方、考え方で見られるようになっていて、それは親の言動に対しても同じ。
親が不快な言動をしたら、かつては無意識に「なんで俺が従わなきゃならないんだよ」みたいところで怒りが湧いていたところを、今は「何を変なこと言っているんだか、そうですか」みたいに、ある程度流すことができる。
むしろ、親が不快な言動をしたら、その何が不快なのかを考えることで、自分自身が本当に思うところを考えてみることができる。
そんなことをしていると、今の私にとって毒親といることは妨げではなく、逆に活かせることだと思っている。
とはいえ、私はとにかく生きるために必死である。
カウンセリングで今対処しようとしているトラウマは、手ごわい。
そんなこんなで、新生活が始まった。