家庭と親の平穏無事と、子どもの考え方生き方が両立しない時
感覚や思うことに現実感が出てきて、人に対しても少し堂々と接することができるようになってきた。
複雑性PTSDとアダルトチルドレンの克服に向けて、確実に一歩一歩進んでいると思う。
だがしかし、これまで何年も自分を縛り付けてきた習性というのは、手ごわい。
一歩進んで「ああ、いいな」と思えば、「お前はそんなんじゃないだろう。弱々しいままでいいんだよ」と内なる声が、私をまた元に戻そうとするのである。
ほとんど大したことをしていないような時でも、私の心の中では、この強くなろうとする自分と、元の弱いままにしておこうとする自分がバチバチ戦っている。
いつも心がもぞもぞしている感じで、心はいっぱいいっぱいだ。
かなり疲弊する。
そうは言っても、元のままにしておこうとする自分を倒して前に進むしか、選択肢はない。
やっとここまで、来たのだから。
ところで、私はちょっと前に、NHKの「宗教二世」の番組を見た。
例の宗教ほかの親の元に生まれ、その後の人生に困難を抱えざるを得なかった人を取材した特集である。
それを見て思ったことは、アダルトチルドレンの問題とも、かなり似ている話なんじゃないかということ。
アダルトチルドレン一般に当てはめるのは無理かもしれないが、少なくとも私自身は、取材を受けていた人たちと似た境遇を考えてしまった。
どういうことかというと、子は子ながら、家庭も親も何とか平穏無事でいられるよう考えて、何とかしたいと思うものなのである。
それがたとえ、まだ保護されるべき小さな子どもであっても。
しかし、平穏無事で安心して暮らしたいという思いと、自分の考え方生き方とがどうあっても両立し得ない時。
子は、困難を抱えざるを得なくなる。
親が正しいということにしないと、生きてはいけないからだ。
もちろん、大人になり経済的に独立できれば、親がどうだろうが生きることはできるようになる。
しかし、大人になっても残り続ける思いがある。
「親はなんでこうなんだろう?」
また、子どもが親に合わせなければならない、その固定した精神的関係も続く。
それを終わせるきっかけは、子が打破しようとした時のみ。
「私は、私の人生を生きる」と決意して。
人によっては、決意したら親と絶縁するくらいのことが必要だと思う。
幸い、私はそこまでは必要ないし、宗教二世ではないから、経済的なことまで問題になるようなこともない(十分かどうかは別にして)。
しかし、親の固定した考えとそれに基づく人生に左右されてしまったという点においては、宗教二世の人と私はほとんど変わらないと考えた。
しかし私は、「自分の人生を生きる」と決意したのである。