アダルトチルドレンの生命力

アダルトチルドレンの克服を綴る日記です。

「パンが食べたい」という気持ちがあることが大事

アダルトチルドレンの克服に向けて、ここまで順調に来ていると思う。

 

親の支配から逃れられつつある私は、親を客観的に見られるようになっているし、また同時に、怒りの強さ度合いも小さくなっているようだ。

 

いや、正確には、怒りは相変わらずあるのだけれど、それが出てきてもいなしてかわしているというか、そんな感じだろう。

 

「親は親。私は私。親の人生に、私からもう首を突っ込むことはない」

 

そんな考えを、頭で瞬時に回転させながらである。

 

ほとんど無意識に。

 

 

その点はうまくいっていると思うが、また一方では、とかく忘れがちなこともあることにも気づいた。

 

「私は、自分で選択して決めていい」ということである。

 

もちろんそれは、何でもかんでもを対象とするものではなくて、普通の人が当たり前に自分で決めているようなものごと。

 

パンにするか、おにぎりにするか、みたいなレベルである。

 

もちろんこれまでも私は、パンにするにもおにぎりにするにも、外から見れば普通に自分で決めていた。

 

しかしそこに、自分がパンとおにぎりのどちらがいいのかといった気持ちは、無い。

 

金がいくらあるかだとか、朝あれを食べてしまったとか、そんなことだけで決めていて、自分の気持ちはどこまでも不在であった。

 

 

ただ、このあたりは説明しようとすると、難しいところだと思う。

 

お金や前に食べたものを考慮して、パンでもおにぎりでも選ぶことは、べつにそんなに異常なことでもないだろうからだ。

 

しかし、かつての私が問題だったのは、パンを見てもおにぎりを見ても、なんの気持ちもわかなかったこと。

 

「食べたい」とか、「好き」という気持ちがまるでなかった。

 

パンを選ぶのは、これまでの経緯で機械的にそうなっただけであり、おにぎりを選ぶにしても同様だった。

 

自分の気持ちの不在から、現実世界に生きている感覚も乏しかった私。

 

食べておいしくても、まずくても、それが本当に自分の感じていることなのかさえ、わからない始末であった。

 

 

今は「食べたいな」とか思うことはあるから、前に比べたらこのあたりもかなり改善したものである。

 

しかし変わらず、自分の気持ちが不在の時もある。

 

最終的に重要なのは、自分の気持ちに従った選択をすることではなく(もちろん、それが一番いいけれども)、何を選ぶにしても、自分の気持ちが顔をのぞかせること。

 

パンが食べたいのに諸々の事情からおにぎりを選んでも、「パンが食べたい」という気持ちこそが大事。

 

「私は、自分で選択して決めていい」というのは、そういうことだと考える。

 

「パンが食べたい」のにおにぎりを選んだのは、現実世界に生きている、紛れもない私だと思えるからだ。