アダルトチルドレンの生命力

アダルトチルドレンの克服を綴る日記です。

親のことを書くのはもう卒業だろう

ブログでこのところ、親がああだのこうだのと書いた。

 

それらは、新たに気づいたり発見したことではなく、その前から書いていたこととさしたる違いはないと思う。

 

 

同じようなことを繰り返し書いているとおり、親はまだ私の中で、私を惑わす存在であることは間違いない。

 

しかし、今はそんな自分を一歩引いたところで冷静に見ていることも確かで、惑わされながらも一方では自分の本心や、自然な自分の姿をいつも探っている。

 

するとなんだか、親に心を煩わされている状態そのものに、不快に感じてくるようになった。

 

かつてのような怒りや恐怖もなくはないが、冷静に抑えられている。

 

それらが抑えられている分だけ、単に不快に思う気持ちが大きくなってきたようだ。

 

 

それは、親に対する不快というより、煩わされている自分自身に対する不快だ。

 

要は、早くそんな自分自身から脱皮したいのである。

 

煩わされたって、なんの得にもならない。

 

それが、アダルトチルドレンの克服において必要なプロセスであるならば、無駄にはならないというくらいだ。

 

 

ただ、煩わされていることを不快に思うということは、そうではない状態もイメージできているからだろう。

 

親と意見や考えや価値観が合うことはないが、それで心が煩わされることはなく、自分の気持ちや考えや価値観が自分のものであると確信できて、精神的に自由で解放された状態。

 

不快に思うのは自分自身に対してであり、親に対してではない。

 

だから、べつに親とは合わなくてもいいし、合わせなくてもいいのだ。

 

 

そしてそんな状態になったところで、親のことや親に対する感情を書くのも、なんだか気持ちのいいものではなくなってきた。

 

いや、最初から気持ちのいいものではなかったけれども、これまではそれを書くことでアダルトチルドレンの克服に向けて、前進していたことも確か。

 

だから気持ちよくはなくても、書きながら気持ちは前向きだった。

 

しかし今は、同じようことを考えたり書いたりすると、自分自身に対する嫌悪感と不快な気持ちが生まれるようになっている。

 

 

だからこれからは親や家庭ではなく、自分の価値観や考え方を書き連ねていきたい。

 

それは親を許すとか許さないなどということとは関係のない、全く別次元の自分自身のこと。

 

 

いよいよ、次のステップに入ったのではなかろうか。