アダルトチルドレンの生命力

アダルトチルドレンの克服を綴る日記です。

「会えばお互いに笑顔になれる」理想を忘れないように

前の記事で、「親のことを書くのはもうやめよう」と書いた。

 

 

その思いは、やはり変わらない。

 

考えるのは、煩わしい。

 

大切なのは、親に関係なく自分が何を感じ、何を思うかである。

 

 

ただ、親のことを書かなければ、アダルトチルドレンの克服をテーマとしているこのブログが、いったい何なのかわからなくなってしまう気がする。

 

しかし、それでもいいかと思い至った。

 

 

そんなこんなであるが、私は最近、「どんな世界が理想か」をよく考える。

 

「世界」といっても、地球儀を眺めてみるような世界ではない。

 

私が関わりを持てる、狭い範囲での「世界」である。

 

友人だったり、仕事関係だったり、趣味の集まりだったり、よく行く店で顔を合わせる人だったり。

 

ここでは、親は除く。

 

 

結論からまず言えば、「会えばお互いに笑顔になれる」関係が理想だと思うのだ。

 

 

「なんだ、当たり前のことじゃないか」と思われそうである。

 

しかし私にとってそれは、今もって当たり前ではないのだ。

 

他人はいつ、自分に牙をむいて襲い掛かってくるやもしれない。

 

理想は理想として考えても、私の他人を前にして出てしまうとっさの心理的反応は、そんな感覚の恐怖なのである。

 

 

これは子どもの頃に身につけてしまったものであるけど、それでもこの恐怖は、アダルトチルドレンの克服を始める前に比べれば、かなり改善された。

 

しかし、まだ改善しきれてないと思う時がある。

 

とはいえ、「恐怖が出てしまっているな」などと気づけるようになったことそのものも、大きな進歩の証。

 

かつては恐怖を感じているのが当たり前で、それが自然だった。

 

自然だったとはいえ、恐怖はいつも自分を苦しめ、疲弊させていたのに。

 

 

改善が始まったのは、自分がアダルトチルドレンであることを自覚し、改善に取り組んでから。

 

「会えばお互いに笑顔になれる」ことを理想とするのは、今から何ヵ月か前にもすでに考えていたことで、考え始めた時から私の行動はちょっと変わり始めた。

 

そのあたりの変化の詳しくは、前に草野球やテニスをした時の話で書いた通り。

 

端的に言えば、「会えばお互いに笑顔になれる」ことを理想と考えたら、そんなことを考えている自分に自信が持てるようになったし、相手にビクビクしなくなった。

 

すると、相手も話や笑顔を返してくれた。

 

みんながみんな、話や笑顔を返してくれるわけではないかもしれない。

 

しかし、それは相手が決めることで相手の問題。

 

私が、相手が笑顔で前向きでいてくれた方がうれしいと思うなら、それを実現している方がうれしいと思うなら、その理想の元で行動していればいいのだ。

 

 

今日書いたのは、復習みたいな話だ。

 

ただ、引越しがあった一ヵ月前までは「会えばお互いに笑顔になれる」理想で起きた変化を色々確かめられたのだけど、引越しで人との交流が仕事関係だけと少なくなり、かつ暗くて澱んだ空気の実家にいる時間が長くなったから、下手をすれば理想を基にした行動を忘れそうなのである。

 

とはいえもうすぐ新年で、気持ちを入れ替えるにはいいタイミング。

 

年が明けたら初詣に行き、神様に誓いを立て、活発に動き始めよう。