私は今、実家にいる。
しかし、親とはほとんど会話をしていない。
日中は仕事をしているし、それどころではないというのもある。
ただ、ちょっと考えてみたら、「会話がないことがおかしい」みたいな考え方が、無くてもいいことではないかと思った。
前は親といる時、会話ができないことに忸怩たる思いがしたし、「自分のことをわかってもらいたい」という思いが強かった。
それはやはり、子どもの頃の後遺症だろう。
親の気持ちと話すことには、私が合わせてあげなければならず、それができなければ私は否定された。
一方で私のことは、理解しようとしてもらえなかった。
それをなんとかしたいという、発作のような症状が、「会話をしてあげなければ」「わかってもらいたい」である。
これを完全になくすのは、自分の力だけでは無理で、今行っているカウンセリングの力も借りなければならないだろう。
おそらく、あと何ヵ月かは必要である。
しかしかように、これまで当たり前のように考えていたけど、実は自分にとって不要な考え方というのに、最近は気づくようになってきた。
今や私が、一方的に親に合わせて会話をしてあげる必要はない。
親だって私を、私も親を、お互いに理解できないことが多い。
それ以上でも以下でもなく、何か話すことがあればすればいいだけである。
こうした不要な考え方に気づけるようになったことは、実はかなりの進歩だと思っている。
なぜならそれこそが、親の脅威と支配から逃れられ始めた証であり、だからこそ親も自分自身も、客観的に見られるようになっていると思うからだ。
また、自分のことも客観的に見られると、自分が本当に心から思うことにも気づけるようになる。
自分が思うことが、間違いなく自分のものだと思えれば、それは生きている実感につながる。
私には長らく、それがなかったのだ。
アダルトチルドレンの克服が、徐々に見えてきた気がする。
人間、ゴールが見えてくると、早くそこをめがけて走りたくなるのだろうか。
急いで駆けて行きたい気持ちも、無きにしも非ずだ。