アダルトチルドレンの生命力

アダルトチルドレンの克服を綴る日記です。

通知表も家庭訪問も授業参観も、「できない子」につながっていった

いつか書こうと思っていたが、親に対して今でも憤っていることがある。

 

学業について、だ。

 

 

私は子どもの頃、自分で自分を「できない子」だと思っていた。

 

通知表やテストの結果を見せれば、他の誰かの方が立派ねと言われ。

 

家庭訪問が終われば必ず、先生が言った私の足りないところをダメ押しされ。

 

授業参観が終われば「やる気が見られないのよ!」と責め立てられ。

 

こと学校での出来事を知られるといつもそんな感じになり、私はダメなんだと自認していたし、またダメ出しされるのが嫌で、親には学校での私には関わらないでほしいと思っていた。

 

 

ただ、「できない子」だと思うこと自体は、必ずしも間違った方向に向かう考え方ではないかもしれない。

 

子どもであっても人には色んな能力があり、またそれが個性である。

 

私の場合、親から問題にされたのは学業だが、学業がダメでも運動ができるとか絵が上手とか、あるいは将棋が強いとかでもいい。

 

何かでできることや得意なことがあって、それも自分だと認められれば、何を言われたって自分を完全な「できない子」だとは思わないだろう。

 

 

私の場合、学業はダメでも、運動は得意だという認識はあった。

 

ところが家で言われるのは、「学業がダメ=あなたはダメ」ということばかり。

 

結果、私は完全な「できない子」という、誤った自己イメージをガッチリと固めてしまうこととなった。

 

 

また、学業を中心に私はダメな子と決めつけられていたから、親は通信教材などを無理やり私にやらせようとした。

 

しかし私はやりたくないし、現にまともにやらなかった。

 

するとまたお叱りが始まり、親にとっては「あなたはダメ」。

 

私にとっても、「私はできない子」。

 

この誤った認識が増幅されていく、悪循環に陥っていったのである。

 

 

年月が経ち、私も大人になった。

 

大人の私から見て、当時の私の成績はどうだったか。

 

べつに、全然悪いものではない。

 

トップではないが、そんなにひどく言われるほどのことかよ、と思う。

 

だいたい、子どもの頃も今も私は、学校の成績というものを対して重要なものとは考えていないが。

 

 

しかし今もってよくわからないのは、親はそんな私になぜ、取り立てて学業のことに目くじらを立てたのか、ということだ。

 

その思想というか、理念というか、そういうところのことだ。

 

たぶん、今聞いたって親は答えられないだろう。

 

それは容易に想像できる。

 

なぜなら、思想も理念も何もないからだ。

 

 

私はその後勉強し、早稲田の政経に行く。

 

トップとはもちろん言わないが、学業という範疇の結果で考えれば、十分であろう。

 

ではそんな私から見て、親の学業はどうなのか。

 

 

学校の勉強が普通にできた人には、全く思えないのである。

 

 

もちろん、先にも書いたが、学校でも一般社会でも学業の結果がすべてではない。

 

しかし、私が問題にして憤っているのは、親が自分ができもしないことを私ができなくて(正確には、できないと思い込んでいて)、さも私の全てを否定するような言動を取り続けたことである。

 

 

「意味わかんね」である。

 

とはいえ本当のところは、私に立派な成績を取らせて、親は自分の承認欲求を満たしたかっただけだと、わかっているのだが。

 

 

憤りがあると言っても、今はそんな親が客観的に見えているから、半分は冷静だ。

 

親は親、自分は自分、で生きていけばいい。