私は家庭を円満にしておくために、犠牲になった。
それは先にも書いたことだけど、したくてそうしたのではない。
子供ながら生きるために、そうせざるを得なかっただけ。
思い出して自分ごとと確信したショックはまだ残っていて、心がそわそわする。
何をするにも、そのことが頭から離れない。
しかし、悲しさはやわらいで、冷静にもなった。
そして冷静になったところで、自分がなぜ解離を起こしているのか、その理由というかメカニズムが、ようやくよくわかったと思う。
私が、自分の存在も、見たり聞いたり感じたりする世界も、現実感を持つことができなかった理由。
それは、「記憶にガッチリと蓋をしていたこと」である。
今回ありありと思い出したのは、私が父の前では何も問題がなかったかのように、振る舞っていたこと。
母とはいざこざがあっても、父の前では平気な顔をすることで、私は家庭の中での犠牲者であり続けた。
そして、こうした構図のもとでの記憶は、もう長い間自分の中では忘れたつもりで、思い出さないようにしていたことである。
しかしこの記憶こそが、今の私を支配する、恐怖また怒りの根本原因であることは間違いない。
実は、すでに記憶として思い起こされていて、これまでもクローズアップしていた母との個別のいざこざは、なんとなく、今の恐怖や怒りにつながる記憶としては不十分な気がしたものである。
今となっては、それは母の幼稚性からくるバカげた理由からだったとわかるし、であればこそ、そんなことを今も引きずっているようには思えない気持ちがどこかにあった。
それが今回、自分が犠牲となっていた状況を思い出し、かつ客観的にその構図を理解することができたことで、自分が今も苦しんでいる原因はこのことだったと、すごく理解できた気がした。
こうした状況こそが、私をアダルトチルドレンに仕立てた根本原因。
私にとって、とても重大な記憶である。
とはいえ私は、今も強く影響を与えているそんな重大な記憶に、ガッチリ蓋をして、思い出さないようにしていたのである。
それはつまるところ、過去から今へつながる自分を、自ら知らない状態にしていたのと同じ。
自分で自分のことを知らないのだから、現実に自分が生きている実感を持てなくても、仕方ないのではないか。
そう考える。
しかし、この記憶を思い出してから、なんか少しだけ蘇った気もする。
ちょっとだけ自信もついた気もする。
やっぱり、私にとって重大な記憶だったのだろう。