アダルトチルドレンの生命力

アダルトチルドレンの克服を綴る日記です。

どうしようもなかった子どもの頃が思い出されては…

浮き沈みが大きいと昨日は書いたけど、今日は沈んでいる方が圧倒的に多かった。

 

 

子どもの頃の記憶が何度も何度も思い出されては、それを消化できない。

 

なんで自分は、こんなに受け入れてもらえないのだろう。

 

こんなに寂しい思いをしているのだろう。

 

それでも家に帰るしかなくて、どうしようもなくて、胸が痛くなるのだ。

 

 

完璧な家庭というのはごく一部、もしくはないのかもしれないけど、それでも多くの人は、自分を受け入れてもらえることを経験して育つらしい。

 

本でもネットでも、よく書いてある。

 

しかし私は、そんな経験の記憶はない。

 

外では周囲から良く思われるよう振る舞うことだけを要求され、家ではダメ出しばかりをくらっていた。

 

小学校低学年くらいの頃までは、そんなことはお構いなしに活発にしていたけど、いつしかそれもやめた。

 

完璧になれと言われんばかりにダメ出しばかりをされ、それが嫌になったからだった。

 

家は決定的に、安心できる場所でも、心地よい場所でもなくなった。

 

 

多くの人が経験する、その逆が私にないことを自覚したら、またそれが今の私の困難につながっているのだとしたら、今さらどうしようもなくて、絶望的な気分にすらなる。

 

今、あの時ああすればよかったんだと考えても意味はないけど、かといってそれを考えたところで、どうすることもできなかったのだ。

 

どう考えたって。

 

私は気づいたらこの家庭にいただけで、逃げ出すことはできなかった。

 

 

そんなこんなであるけど、子どもの頃をありありと思い出すようになったのは、アダルトチルドレンの克服に取り組む中で生まれた変化であり、達成に向けての一つのハードル、試練だと考えるしかない。

 

 

実際、後退しているわけではないと思う。

 

むしろ、いかに自分が病的に、子どもの頃の記憶にガッチリとフタをしていたかがとてもよく分かって、それは新たな発見だった。

 

 

ただ、前向きな気持ちががくんと減った。

 

これからも、もうどうしようもないのかな、という気さえする。

 

私はただ、普通に暮らしたいだけなのに。

 

 

しかし、あのクリントンアメリカ大統領も、アダルトチルドレンだったらしい。

 

そこまでの人物になれる人もいるのだから、普通に暮らすことくらい、私にだってできるようになると思いたい。

 

 

普通とは、なんぞや?

 

まあ、普通である。