あれ?
普通に、話せるではないか。
ビクビクせずに。
そう思ったのは、今日のテニスの帰り道。
前にも登場した、ちょっとギャルの女性と話をした時のことを、振り返ってのことだった。
これまでと違い、私はなんか堂々としていたのである。
声も、かつてより大きかったようだ。
「話せるようになった」ということを考えるなら、相手に慣れたとか、お互い打ち解けたからといった理由は、よくあるだろう。
しかし、今日に関してはそうではない。
明らかに、私の心持ちと態度が変わったのだ。
さらに、そんな出来事を振り返ったら、ふと、小さい頃のおぼろげな記憶が、顔を覗かせた気がした。
シーンは学校でもなんでもあるが、人と会うことをひかえている時のこと。
遠い昔のあの頃は、人に会えることが楽しみで、ちょっとワクワクしていたんじゃないかと思ったのだ。
この記憶については、まだ確信は持てない。
しかし、確からしい気はしている。
ただ、それが確かだとすれば、親とのことで思うことがある。
アダルトチルドレンの原因である親、特に私を縛り付けて不自由にした母親と私は、何から何まで似ていないのだ。
人に会うことに関しては、母親がそれを前にしてワクワクすることなど考えられない。
ビクビクして、気を使うことにばかり思考がいく人である。
だから、今も自分から進んで出て行って、他人と一緒に何かを楽しんだりということはしない。
交際もおそらく、ものすごく狭い。
人と会うことにワクワクすることが、私の本当の気持ちであるならば、母親は全く逆な気がしてならない。
その他、能力も興味関心も、全く同じところがない。
似ているのは、猫を愛でることくらいだ。
もちろん、親と子は別の人間であるから、似ていなくても不思議ではないし、似ているべきだとも思っていない。
しかし、思考も行動も何もかもかけ離れている親に支配されたのが、アダルトチルドレンである私だとすれば?
とんでもなく生きづらいのは、当たり前である。
現実感を持てないのも、当たり前だ。
全然違う人の人生を、歩んでいるようなものである。
また、新たな気づきと発見があった。
これからも、きっとあるだろう。
何はともあれ、ちょっとまた、子どもの頃の人に会う前の気持ちについては、気にかけていきたい。