アダルトチルドレンの生命力

アダルトチルドレンの克服を綴る日記です。

ストレスが小さくなる、不幸な世界と決別する

以前に比べれば、親にイライラすることはなくなった。

 

 

しかし、これは親が変わったからではない。

 

変わったのは、私である。

 

 

イライラしなくなったことで、精神的なストレスが小さくなった。

 

また、アダルトチルドレン的被支配の状態から抜け出した、私本来の気持ちや考え方が、だんだん見えてくるようになった。

 

 

それと同時に、私はたまに出くわす、母親の愚痴や批判、見栄に、軽蔑の気持ちを持つようになった。

 

この人は、自分がいつも不幸だという観念があるのだと思うけど、それに家族を道連れにしようとしている。

 

 

もちろん、そんなのはごめんだ。

 

ごめんだと言ったところで、もう一度は深く道連れにされてしまったのだけれども。

 

だから正確には、「私はそんな不幸な世界とは決別する」ということだろう。

 

 

ところで、話は変わり、だんだん仕事がしたくなってきた。

 

本当のところは、今も仕事はしているのだけど、全然物足りない。

 

もっと人と会ったりして、少しは一丁前にやりたい。

 

ただ、これが難しいところで、やはりもうちょっとアダルトチルドレンをきちんと克服しなければ、また危うくなるやもしれない。

 

一方で、その取り組みを始めて以降、一会の人も含めてある程度の数の人と話したり顔を合わせたりした経験からは、母親みたいな人はいないだろうことがわかった。

 

もちろん、人は多かれ少なかれ、外に向けてと内に向けての顔があるだろう。

 

だいたいの人が私に見せたのは、その人のほんの一部の顔であることは間違いない。

 

しかし、相手が母親みたいかどうかは、たぶん一瞬でわかる。

 

意味もなくビクビクしているかどうか、である。

 

そんな人は、いなかったわけだけれど。

 

 

それはそうと、今日も最後に、適当なネタで自分を振り返る。

 

では、相撲について。

 

私は相撲が、小さい頃から好きである。

 

小学生の頃、学校から帰り、外で遊んで帰宅して、本場所の中継がやっていると毎日のように見ていたものだった。

 

ギリギリ、千代の富士がいた時代も覚えている。

 

 

今は、土日にたまに見るくらいだけど、ニュースなどでよくウォッチはしている。

 

巡業には2回行ったことがある。

 

昔も今も、特段ひいきにする力士はいないのだけど、なぜかずっと好きである。

 

 

書いていて思ったけど、スポーツとしての相撲のどこが好きなのかというと、言葉に詰まるというか、自分でもよくわからない。

 

自分自身が、本気でやろうとしたことはないからかもしれない。

 

相撲の世界は、どこか別世界なんだと思う。

 

見ていてただ、面白いというほかない。

 

 

とはいえ、相撲を見ていて明らかに、自分が興奮しているなとか、心臓がドクドクしているなとか、思うことがある。

 

相星で、幕内最高優勝が決まる一番だ。

 

始まると、息が止まっているんじゃないかと思うくらい、熱中して見てしまうものである。

 

 

相撲の一番の醍醐味は、そんな興奮や熱中具合だと思う。

 

同じことは、他のスポーツを見ている時も言えると思うけど、それはまた別の機会に書きたいと思う。