アダルトチルドレンの生命力

アダルトチルドレンの克服を綴る日記です。

大いなる怒りは、湧いてこなくなった?

少しずつ、良い方に変わりつつあると思う。

 

昨日のテニスでは、相手を笑わせるよう仕向けたり、普通に会話のキャッチボールをしてその中身もはずんだり。

 

もちろんそれらはちょっとしたことで、べつに大仰なことではない。

 

取り立てて騒ぐほどのことでもないと言えば、全く持ってその通り。

 

しかし、それらができることは、私が長い間死なせておいた本望。

 

できたということは、確実に一つのステップを上がったと見ていいのではないだろうか。

 

 

そして今日は、子どもに会った。

 

少々離れた遊び場へ車で移動中、子どもはディズニーのDVDに夢中になっていたが、その様子を傍から見て、ちょっと思ってしまったことがある。

 

DVDを見ながら、ああだこうだ言いながら、笑い声がはずむ子ども。

 

その姿と、自分の子どもの頃が重ならないのである。

 

 

私はおそらく、自分の子どものようには、子どもらしいことを無邪気にさせてもらったり、楽しませてもらったことがとても少ない。

 

加えるならば、そうして子供が楽しんでいるのを、大人が見守っている状況の経験である。

 

ディズニーやトトロが絶対必要だとは考えないが、そうした世界に触れさせてもらった記憶はない。

 

プラレールトミカでは、遊んでいた。

 

しかし、一緒にああだこうだ言ったり、見守られ安心して遊んでいた記憶がない。

 

あるのは散らかして、とがめられた記憶ばかり。

 

遊んでいる最中はいつも一人であり、またそうした状況に満足しきれないまま、「片付なさい」で終わっていた。

 

 

またそれは、今の母親から見て、考えるところでもある。

 

客観的に見て、母親が子どもの世界を理解しようとしたり、見守るようなことができる人には見えない。

 

すぐに、「あれはダメ」「こうしなさい」ばかりが口をついて出て、時に勝手にやってしまうのは容易に想像ができる。

 

「想像ができる」と書いたが、実際には最近、甥っ子に対しての母親のそんな習性を、目の当たりにもしていたのだ。

 

そんな母親を、弟自身が制止するような場面もあった。

 

私も思った。

 

「まず、思いっきり楽しませてあげるべきなのではないのか?」と。

 

 

これは、アダルトチルドレン克服に向けての新たな、かなり大きな気づきかもしれない。

 

ただ、このブログを書き始めた頃であれば、気づくと同時に大いなる怒りが湧いてきていたであろうところが、今は不思議と、そんなではない。

 

「きっとそうだったんだな。もう仕方ないしな」といった思いである。

 

 

それでいて、自暴自棄になるのでもなく、冷静に考えられるようになったのもまた、一つのステップを上がった証左ではあるまいか。

 

母親の人生は、母親の人生。

 

私の人生は、私の人生。

 

当たり前のようでありながら、家族であることから分かちがたくなってしまったこのことを、今では心と行動にわたって理解し始めているのかもしれない。

 

 

ともかく、私の今の全ては、アダルトチルドレン克服のため。

 

きっと、いい感じだ。