子どもの頃を思い出しては、「俺はいいんだ」と思ったり、悲しくなったり。
とにかく、浮き沈みが大きい。
ただ、一つ言えるのは、そんな自分を客観的に見られていること。
浮いている時も、沈んでいる時も、自分なのだ。
かつては、どんな感情が起こっても自分のものである気がしなかったから、この点、進歩したといえよう。
それとは別に、なんで親はいつもあんなに暗いのだろうと思う。
それに対して怒りの感情はもうないし、そんなに深く追求しようとも考えていないけど。
親はとにかく、明るい話題でさえ、暗い部分に目を向ける。
すぐに自分のレベルの低さを嘆く。
すぐに他人を悪い方に批評する。
私もこの親に育てられたアダルトチルドレンであるから、まだそういう部分はある。
しかし、アダルトチルドレンを克服しようとしているここ最近において、少なからず改善された。
すると私の地の考えかたや気持ちが露わになってくるわけだけど、それを元にすると、親がこうしたことをしている意味が分からないのである。
傍から見ていれば、自分の不足を棚に上げ、何かにぶつけているようにしか見えない。
とはいえ、それはどうでもいいといえばどうでもいいこと。
もっとも大切なことは、自分がどうなるか、どうしていくかである。
そこでだけど、この辺でアクセルを少し強く踏み込みたいと思う。
アダルトチルドレンの、克服に向けて。
ブログは、毎日書こう。
仕事が遅くなったり、具合が悪い場合は仕方ないことにするけど、そうでなければ毎日。
今のとりあえずの目標は、冒頭に書いた浮き沈みをなくすことである。
ずっと、浮いたままにする。
浮いたままと言ったって、浮いた状態がいわば普通の人の状態である。
それが達成されたら、次にどんな課題が出てくるのかは、まだわからない。
この浮き沈みは、その言葉通り大波に揺られているようで、心地いいものではない。
辟易するというのがピッタリな表現だと思うけど、なんか疲れてしまう。
一日の長い時間、マンガにあるぐちゃぐちゃの吹き出しがついて回る感じである。
こうした状態から、単純に早く抜け出したいことも確かだ。
ただ、焦ってはいけない。
アクセルを踏み、スピードを上げても、コーナーを回れなかったりスピンしては意味がないのだ。