恐ろしくも自分にも当てはまる事柄が多々ある「生き写し」
花粉症が、ひどい。
頭がガンガンするとまではいかないけど、感覚としては痛いというそのもの。
関節も、しかり。
体に力が入らない。
久々に首都圏に帰り、覚悟はしていたけどここまでとは。
今日は午前中に医者に行き、帰ったら寝ているしかなかった。
まだ頭がボーっとしている中、これを書いている。
ずっと「しんどい」と言っていたいところだけど、そんな状態でふと、不思議と我に返るような瞬間が何度かあった。
「俺は、生きている」
このしんどさは、自分しかわからない。
もちろん、似たような状態を経験する人は、日本中を見渡せばたくさんいるだろう。
しかし、今この瞬間のしんどさを経験しているのは、私だけなのだ。
これが今後、どういう方向に向かおうとも、その結果を受取るのは自分である。
楽になろうが、拷問のような辛さがしばらく続こうが。
「誰か楽にしてくれ~」という気持ちもあるけど、私が何もしなければその可能性はない。
子どものように面倒を見てくれる人がいるわけではないのだから、自ら何らかのアクションを起こして初めて、その可能性も出てくる。
出てこないかもしれない。
スリル、というとちょっと違うかもしれないけど、そんな未知の先に思いを馳せる時、「あぁ、俺も生きているんだな」と思った。
そんな一方で、花粉症については二言三言、母親と会話を交わした。
それについての私の感想だけ述べると、「べつに、そんなこと言ってるんじゃねぇよ」であった。
やっぱりなんか、解釈がズレている。
とはいえ、誰と話をするときでも、解釈がズレてしまうことはおかしくないことかもしれない。
しかし母親は、そこで自分の理解で完結してしまう。
だから、共通理解が生まれない。
それは今思えば、子どもの頃から同じで、私が何かを訴えたところで母親は母親ですぐ完結してしまうのであった。
今も昔も、こちらの話を聞いてもらえている感じがない。
ちなみに今回の例では、「べつに、そんなこと言ってるんじゃねぇよ」とは思っただけで言っていないものの、言ったところで「じゃあ、どういうことなの?」と聞かれるわけでもなく、また母親自身の勝手な解釈だけが出てくるだけなのは明らかである。
それが続くと、こちらが一方的に母親の話を聞いて理解してあげなくてはならないみたいになるのが常であった。
実際のところはこんなわかりやすい展開にはならないが、昔も今も母親と会話をすればこのような感じで、いつも理解してあげるだけの側に回らなければならないのである。
ただ、そんな母親を見ていると、恐ろしくも自分にも当てはまる事柄が多々ある。
違いは、母親がそのおかしさに自分で全く気付いてなくて、私は気付くことくらい。
気付いていなくても、違和感を感じてしまうのが私であった。
今回の会話の件についても、「あっ!?俺も!?」と思ってしまう節がある。
親子で逆かもしれないけど、母親が私の「生き写し」になっている感じだ。
この状態には自分自身で違和感を感じるけど、じゃあどうすればいいのかというのが、大きな課題だ。
私もこの状態で十年単位で生きてしまったわけで、いきなりは治らない高めのハードルに見えている。
しかし、この母親がありありと見ることのできる、反面教師であることは間違いない。