昨日は頭が痛かったけど、かなりすっきりしてきた。
しかし、薬の副作用か、お腹が緩い。
お腹の薬ももらっているのに。
こっちがよくなれば、あっちが悪くなる。
なかなか楽にはならないけど、これが現実で、私は生きている。
ただ、かつてはこのようなことになった時、誰に向かってとはなしに「誰かなんとかしてくれ~」みたく、叫ぶような気持になったものだった。
同時に、それが満たされないむしゃくしゃが襲ってきた。
おそらくそれは、私の「子どもの部分」であっただろう。
ただ誰かに、無条件にどうにかしてほしいのだ。
しかし、大人になった以上、それは叶わない。
それもわかっているから、むしゃくしゃするしかなかったのだ。
花粉に襲われている今も、むしゃくしゃするという部分では昔とは変わらないけど、その中身はだいぶ違っているように思う。
「誰かなんとかしてくれ~」みたいな気持ちはなかった。
あったのは、花粉の恨めしさである。
その上で、これではどうにも仕事にならない状況において、自分が取りうべき最善の道は何かを考えた。
ちょっと、もうろうとしながら。
結果、休むことにした。
溜まっている仕事もなかったし、べつに今日休んでもよかろうとのことだった。
その結果は、自分が負えばいいのだから。
特に迷惑をかけたりというのは、無いだろうけど。
また、かつてであればこんな状況になっても、「休んだら他人にどう思われるか」を考えてしまっていた。
カッコ悪いとか、情けないとか、思われるだろうと考え、ただでさえある体の苦しみに、精神的な苦しみが加わったのである。
今回も、そんな思考がちらっと姿を現したけど、「うるせぇこの苦しみは俺しかわからないんだ」みたいな感じで、はねのけた。
そんなこんなで、「生きている」=「現実」=「責任」のつながりが、私にもようやく見えてきたのではないかと思う。
しかし、現実が見えてきたところで、この先とるべき道はまだ、わからない。
生活とか、仕事とか。
この2つは不可分であるし、選択肢がたくさんあるわけでもないけれど。
しかし、そもそもまだアダルトチルドレンを克服できていないわけで、先のことを考えては今焦ってはならないと、自分に言い聞かせてもいる。
ともあれ今のこの状態は、毒親の元に生まれてしまった私の運命でしょうと、考えるほかない。
毒親を許しはしないけど、自分の運命は受け入れる。
逆に、運命は受け入れるけど、許しはしない。
その構図しか、成り立たないだろう。
今日も私は、生きている。
子どもの頃から、頑張って生きてきたのである。