アダルトチルドレンの生命力

アダルトチルドレンの克服を綴る日記です。

おぞましく思ってしまうことが多くなった

ここ最近、気持ちの浮き沈みが激しいと書いたところだけど、特にこの2日ほどは、その沈んでいる時におぞましく思ってしまうことが多くなった。

 

子どもの頃に見た情景や記憶が思い出されては、なんだかもう絶望的なのではないかと思うことが、多々ある。

 

私は、自分を認めてもらえて、安心できる家庭がなかったのだ。

 

 

物理的に叩かれたことが無いではないけど、身体に影響するような虐待は無かっただけ、まだよかったということはできる。

 

でも、それで「そんなの昔のことじゃん」で済まされないのが、アダルトチルドレンである。

 

それで済まそうとしたけれども、苦しさは続き、済ませられないから今こうして、その克服に取り組んでいる。

 

 

過去の自分が思い出される時、今の自分から見てかわいそうだったなと思う気持ちも、少しある。

 

しかしそれよりも圧倒的に大きいのは、「なんなんだこの劣悪な環境は」という恐ろしさである。

 

いつも自分優先で、私を理解することなど考えない親。

 

見栄ばかりを気にして、取り繕うことだけ要求する親。

 

愚痴、文句、不満を私にぶつけてくる親。

 

そんな状況から逃れられなかったのは、悲劇でしかない。

 

生き地獄と言っても、誇張ではないと思う。

 

 

苦しい気持ちが出てくるけど、これもまた、乗り越えなければならない壁なのだ。

 

職場や友人に、私が取り組んでいることを言うことはあるけど、それを本当に理解されることはないだろう。

 

苦しんでいることを、わかってもらえているだけありがたい。

 

それでいいと思っているし、これは最後の最後まで、自分で解決しなければならない問題なのだ。

 

 

そんな中にあって不思議なことだけど、一方ではふと、我に返るような感じで、私が私であった頃の感覚のようなものが、ふわっと蘇った気がする時がある。

 

本当にふわっと、軽く、一瞬だけど、親に邪魔をされていない私本来の姿、みたいな感覚だ。

 

その瞬間だけは、郷愁めいたなつかしさが頭をよぎったりもする。

 

 

とはいえ、やはり圧倒的に多いのはおぞましく思う気持ちであり、そこから昔の自分をかわいそうに思ったり、よく頑張ったと認めてやりたくなったり、もうここまで生きてしまった以上はもう救いようないんじゃないかと絶望を感じたり…と、まるでまとまらない状態だ。

 

それはまだ、子どもの頃の自分に決着がつけられていないということだろう。

 

今はどうしたらいいかわからないけど、決着をつけるべく、常に模索していくしかない。

 

決着がつけられたら、強くしなやかに生きられるのだろうか。

 

 

あっ!

 

今、ふと我が蘇った!