昨日今日の話ではないが、新渡戸稲造の本を読んでいて、心に残る一節があった。
ところで、とかく油断すると、性質が違うために他人を排斥し、あからさまに悪口を言ったり、陰に回って罵ったりすることがある。このようなことは自分の仕事に不便なだけでなく、自分の人格をも小さくしてしまう。どんな人でも、他人を容れるという考えがあれば自分というものの輪郭を大きくするが、人を排斥すれば自分を小さくしてしまうのである。
新渡戸稲造著、『自分をもっと深く掘れ!』、知的生きかた文庫、2006、P195
これがなぜ、心に残ったのかを自分に問うたら、親と私の姿を端的に表しているからだと思い至った。
「性質が違うために他人を排斥し~」は、恥ずかしながら、私が持っていて頑なに離すことのなかった思考である。
自分が理解できない他人は徹底的に遠ざけるか、自分から離れていった。
また、そんな人は、あたかも完全な敵であるかのような考えを、頭の中でグルグルさせていた。
近しい人には、それを実際に口に出して伝えてさえ、いたものである。
べつに喧嘩をしているわけでもないのに、正しいのは自分であると、強烈に主張するように。
しかし、今思えばそれも、私の生きづらさを補強するものであった。
新渡戸稲造も「自分の人格をも小さくしてしまう」と書いているが、その通りなのは、私もたぶんずっとわかっていたのだろう。
もちろん、自ら進んでそんな結果になることを、したいと思うはずはない。
しかし、自分でもなぜそんな自傷行為みたいなことをしてしまうのかわからなかったし、やめることもできなかった。
一方で、これは今現在の親の姿を現してもいる。
新渡戸稲造の言うことに従うなら、本当はあまりこんな悪口みたいなことは書きたくないのだが、母親はとかく自分の理解できない他人をこき下ろすようなことを言う。
昔も今もである。
私はそれが当たり前だった環境に育てられて、半分はそんな環境に疑問を持ちながらも決定的におかしいことを確信できず、母親の姿を自分の姿にしてしまった。
さもありながら上述のとおり、私は生きづらさを抱えていた。
これは何か、間違っているのではないか?という思いを、無意識に抱えながら。
おそらく子どもながらにそうだったから、私は家にいるのではなく、外に出て家族より他人と一緒にいることを好んだのであろう。
それは結局のところ、他人の環境と自分の家庭環境とのギャップに対する違和感を、より大きくすることになっていっただろうけど。
しかし、まわりまわってそれが幸い、私は新渡戸稲造の言う「他人を容れるという考え」を当たり前に持った、輪郭の大きな人たちと長い時間を過ごすことになった。
そんな私の周りによくいる人たちと対照させてみると、やはり母親は小さい人間だと思う。
「人を排斥すれば自分を小さくしてしまうのである」と新渡戸稲造が書いていることが、そのままである。
もちろん、私自身もまだ、小さい人間から抜け出しきれてはいない。
しかし、母親自身はそんなことに何の疑問も思っていないようだが、私自身はやはり、同じは嫌である。
べつに、「大きな人間」の方が立派だとか見栄がいいとかいうことではない。
性質が違う人だってみんな精一杯生きているんだし、それでいてみんなが幸せになるのが一番いいのは当たり前だと思うからだ。
ちょっとしたことで排斥したり、悪口を言ったりなどという性根の小さいことはしたくない。
もしかしたら、ここに書いていることも母親を排斥し悪口を言っているのと同じかもしれないから、ここらへんでやめておく。
私の場合、本心では書きたくないが、アダルトチルドレンの克服のために整理しなければいけないから書いているのであるが。
そして、母親と同じは嫌だという考えを、変えるつもりはない。