見たいものがなくてもテレビをつけるようになったことは先に書いたが、さらに、私の中で思う変化がある。
なんとなく、時間が長く感じられるような気がするのだ。
今考えればであるが、私はその日に何をしていようと、「もうお昼だ」「もう夜だ」「明日は〜」みたいな感じで、常に時間の奴隷みたいな感覚を持ちながら毎日を過ごしていた。
そこに、私の主体性や意志はどこにもなく、ただ時間があっちに行けと命じればあっちに行き、こうしろと命じればこうする、みたいな感じ。
もちろん、ほとんどの人はやるべきことなすべきことのほとんどに、時間の限度がある。
だから、時間に縛られ追われるというのは、誰もが少なからず経験することではあろう。
しかし私が違うのは、そうした状況に対するストレスの度合いである。
心身ボロボロになってしまうほどストレスを溜め込み、疲れ果ててしまう。
私なりに、そのメカニズムを考えてみた。
主体性や意志がないとは、どういうことか?
それは、時間の命令に従い、その通りにできなければ私の存在は全否定され、もう用無しだと捨てられることとイコールである。
捨てられれば、生きていけない。
だから常に時間様の顔色を伺いながら、怯えてビクビクしている。
何をしようと、それは常に時間様のお導きであり、従えないようであれば抹殺される。
私の心は、安心して休まるところを知らない。
最後には、心身がボロボロになり果ててしまう。
それでも、スポーツをしている時と寝ている時は、そんな状態から抜け出せられていた。
当然ながら寝ていて意識を失っていれば、時間様は現れない。
スポーツに夢中になっている時だけは、時間様は私に脅迫できない。
しかし、それ以外の時の私は、常に時間様に脅されている。
もちろん、毎日の暮らし中では、脅されている時間の方が全然長い。
とはいえ、多かれ少なかれ人は、ストレスを抱えているものだとも言えるだろう。
しかし、そのストレスの度合いが私の場合、「程度問題」で片付けられる話ではおそらくない。
つまるところ、そんなにストレスを抱えてしまうのは明らかに変で、病的であるということだ。
時間について考えたら、そんなことも思うに至った。
話を最初に戻すと、時間が長く感じられるようになったのは、時間様から時間を取り戻して、主体性が出てきたからかもしれない。
そうだとしたら、素晴らしいことである。
日々、理由なく背負っているストレスも、減るのかしらん?