動物と将棋。
テレビをつけていたら出てきたテーマだが、今までは確実にスルーしてたであろうこれらテーマを、どんなだろうと思って見てしまった。
たぶん、関心が自分の外に向かって開かれてきたんだろうと思う。
良い兆候だ。
私は確実に、変化している。
また一方で、イスラエルによるパレスチナのガザ地区への地上侵攻が、もう待ったなしであろうとのこと。
映像を見れば、すでにあまりにも悲惨で戦いそのものを終わらせてほしいのはもちろんだが、次善の策としても人道回廊、検問所の開放は一刻も早くやってほしい。
これは、他の誰でもない、私の素の心から出たもので間違いない。
しかし以前は、たとえ同じことを思っても、なんだか本当に自分が思っていることのような気がしなかったものである。
ウクライナが今も進行中だが、世界の紛争はずっとどこかで起きていて、その度にこうしたニュースを見てきた。
毎度、今回のガザ地区に対するのと同じことを思うのであるが、しかし一方で、出来事自体が自分のいる世の中で起きていることではないような、またそれに対して思うことも、他の誰かに命じられて思っているような感覚だったのである。
ここでいう、他の誰かとは、誰か?
「戦争はいけません」と思いなさい、と命じる誰かである。
それは、そうしないと「あなたは悪い人です」と、脅す人でもある。
それは具体的な誰かというのではないけれど、とにかく自分の意思や思いを小さい頃に取り上げられてしまった私は、そういう社会的通念、常識、良識、共通理解などをただ、自分のものとして使っていただけ。
そうしないと仲間外れにされるぞと、ビクビクしながら。
私はずっと、脅しに屈したままであった。
今は、そんな誰かにから少し自由になってきたわけだ。
そして、命じられなくたって、私自身の素の心は、同じことを思っていたのである。
もちろん、私が思うことが、社会的通念、常識、良識、共通理解と違うことはあるかもしれない。
そもそもそれらが、世の中のみんな一致していることなど、あるはずがないのであるが。
一致しないから、戦争や論争は起こるのであろう。
また一致しないから、民主主義が必要なのだろう。
一致しなくても戦争は論外として、ここで言いたかったのは、私はデモをしたり、声高に主張し活動する人がなぜそれをするのか、これまで理解できなかったこと。
SNSで発信をする人も、しかり。
正しいとか正しくないは別にして、そういう人たちは、一人の人間としての自分の心で物事を捉えられているから、自信を持って行動できるのであろう。
そもそも自信の無い私には、できないことだった。
理解できることではなかった。
べつに活動家になりたいと思っているわけではないし、活動家も中には職業的にそれをしている人もいるようで、そういう人は別である。
しかし、素の心で物事を捉えられると、自ずと信念めいたものも生まれ、また自ずと行動も発信もできるようになるのかも、と思った。
関心を外に向けられたのは、その一歩かもしれない。