どうしてかはよくわからないが、だんだん、自分の感覚や思うことが、確かに自分のものなのかもしれないと思うようになった。
例えばテレビ。
素晴らしい景色や美味しい食事を芸能人が紹介する、よくある番組を見ていたが、今の私はあまりなんとも思わなかった。
それはたぶん、今どうせ行ったって自分の心で感動できたりするかというと、そんな自信はないからだと思う。
自分としては今、それはそれでよくて、仕方がない。そんなことを、テレビを見て少し経ってから客観的に、これが自分の気持ちなんだなと自覚めいたものがあった。
自覚めいたもの、とは、まだ自分で自分を信じられていないからだ。
一方で、前の自分だったらどうか。
たぶんふわっとした感じで、行ってみたいとか美味しそうとか思う「フリ」をしていただろう。
そして、その背後には、「こういうのを経験して話したら、人にすごいね羨ましいねと認めてもらえるかもしれない」みたいな心の働きがあったと思う。
それは無意識の心の働きだから、その時そんなことを、いちいち言語化して考えたりはしない。
でも、承認欲求だけで思うことを作り出しているから、それが自分の本心だという確信はどうしても持てない。
四六時中そんな感じで、四六時中自分が自分でない感じになる。
こうした心の働きは、どこから来ているか。
母親である。
振り返ると、母親は例えば、いい車を持っている人を見栄っ張りと揶揄するようなことを言ったり、そうでなくても自分や家族含めて、「よく見せること」に対する執着が強い。
他人も自分自身も、「見られること」ばかりに意識を向ける。
それは、なんだか怯えているようでもある。
私自身は、子どもの頃はあまりにそれがしつこいと、反逆していたと思う。
また、最近だって、なんとなく違和感を感じることはあった。
しかし、反逆しても従うしかなかった子どもの頃を引きずって、ずっと母親と同じ教義に従って過ごしていたのだ。
子どもの頃からは何年も何年も経っているのに、自分の意に反して、母親の教義を無自覚に信じ切ってトレースしている状態。
それだと苦しむだけなのに、抜け出そうにも抜け出せなかった状態。
人はたぶん、誰でも何かしらを信じている。
でも、信じているものが自分を苦しめているものであっても、信じていると苦しいのが事実だということがわからない。
脳というのは、刃にもなり得る怖さも持っているんだと思った。