アダルトチルドレンの生命力

アダルトチルドレンの克服を綴る日記です。

自分がやりたいことを見守ってくれる大人たちや理解してくれる親がいる環境

昨日のニュースではあるけど、大谷翔平が結婚したらしい。

 

 

おめでとう。

 

 

私は野球が好きなので、あとは野球でこれまでと変わらず活躍を見せてくれれば、嬉しいものである。

 

仮にこれまで通りとはいかなくても、もう十分賞賛に値する野球選手だけれども。

 

 

一方で、その大谷翔平しかり、藤井聡太しかり、他にもすごいことをやってのける人はいっぱいいる。

 

しかし、そういう人たちの育った環境と、私のそれとはどれほどの違いがあったのだろうかと、考えたりもする。

 

 

もちろん、私自身も環境さえそろえば彼らと肩を並べられる、などと言うつもりはない。

 

彼らに開花する才能や資質が元々あったのかはわからないけど、人並外れた努力や研究をしたことは間違いないであろうし、私がそれに比することをできるかと言えば、できない気がする。

 

だから、ほとんどの人と同じく、ひがむ気持ちがあるわけではない。

 

ただ、ただ賞賛するだけであり、楽しく明るい話題や興奮を提供してくれてありがとうと言いたい。

 

 

しかしながら、そういうスケールの違う実績を残す人たちは、のびのびとやりたいことを満足するまでやらせてもらえる環境があったことは、間違いないだろうと思うのである。

 

少年・少女時代には、それを温かく見守って応援してくれる大人たちがいたことだろう。

 

それでももちろん、成長して大谷翔平になるのは、例外中の例外。

 

むしろほとんどの人は、野球にせよ将棋にせよなんにせよ、面白かったかったからある程度続けられたことはあっても、プロを目ざすほど熱中して真面目に取り組んだわけではなかったであろう。

 

しかし、大谷翔平に比べればそんな凡人であっても、自分がやりたいことを見守ってくれる大人たちや理解してくれる親がいる環境というのは、今、社会で立派に働いて世に貢献している多くの大人たちであれば、経験してきたことだったのではないかと思うのである。

 

 

もちろん、子どもであればどんなこともやらせてもらえるべきだ、と言いたいわけではない。

 

現実には、やりたいことの分野によって程度はあれど、経済力という壁がある。

 

子どものやりたいことを全て叶えられないのは親失格だ、みたいな話はいくらなんでも暴論だ。

 

やりたいことをなんでもやらせてもらえた人は、ごく少数だと思う。

 

 

ただ、子どものやりたいことを理解して、少しでも満足させてあげられないかを考えることはできるだろう。

 

ピアノは買ってあげられなくても、他の〇〇ならどうだろう?みたいに話し合ってみるような。

 

私は子どもにとっては、望みが叶えばもちろんうれしいけど、大切なのはこのように「理解してもらえている」という経験なのではないかと思っている。

 

私が子どもでも、そういうのが理解があれば望みが叶えられなくても納得して、少なくとも自分の希望は否定されていないのだと満足することはできる。

 

 

では私はどうだったかというと、そうした記憶がない。

 

望みが可能であれば「はいはい」、可能でなければ「ダメ」だけであった。

 

なんでダメなのか聞いても、「黙ってなさい」。

 

だいぶ前に書いたけど、「はいはい」と言っておきながら、親自身の好みで私の希望と違うものを買ってきたこともあった。

 

野球はかろうじてやらせてもらえたけど、母親は嫌がっていたのを私は知っている。

 

 

久々に、こねこねと理屈を書いてしまった。

 

ともかく、私は自分が否定されていると感じる環境で育ち、それが今日につながっていることは間違いないと考える。

 

べつに、今私は大谷翔平になりたいと思っているわけではない。

 

なりたいと思ったって、もちろんいいのだけれど(年齢的には全然別の人物が憧れの対象になろうけど)。

 

ただ、私はそんなことよりも、社会で立派に働いて世に貢献している多くの大人たちの仲間入りをしたいだけだ。

 

逆境とも言うべき、子ども時代を克服して。