アダルトチルドレンの生命力

アダルトチルドレンの克服を綴る日記です。

自分の「信じるもの」はなんだろう?

むむむむっ…

 

だんだん、わかりかけてきた。

 

私の心の異質性を、言葉にするならば。

 

 

私には、「信じるもの」がなかった。

 

一方で人は普通、何かを信じて生きている。

 

より正確に言えば、大人になる中で、「信じるもの」が形成される。

 

 

信じるというと、神や仏や宗教が対象として連想されそうだけど、それだけではない。

 

むしろ、神や仏や宗教以外の方が多い、幅広いもの。

 

あれやこれやをするのが好きだとか、こうすれば世の中もっと良くなるはずとか、あんな風なのが理想だなとか、自分だけでなく世の中も含めての、考えうるあらゆる信念みたいなもののこと。

 

普通はそうしたものを持っているのが当たり前であり、「信じている」などとはわざわざ考えない。

 

でも、人は必ず何か「信じるもの」に従って行動している。

 

 

たいていの「信じるもの」は、円滑な人間関係を作ったり、社会をスムーズに動かすことにつながる。

 

一方で、その「信じるもの」によっては、事件を起こす人も生まれてしまう。

 

また、自らを疲弊させて病気にしてしまう「信じるもの」もあるだろう。

 

私に「信じるもの」があるとすれば後者であって、「無力で弱くて情けなくいなければならない」みたいなことを信じている。

 

だから、いきなり前言撤回するけど、「信じるもの」がないわけではない。

 

しかし、社会を生きる上で必要とされる「信じるもの」を持っていないとは言える。

 

 

そうなってしまった理由は、子どもの頃に親に禁止されてしまったからだ。

 

もちろん、「信じるものを持ってはダメ」などと、直接言われたわけではない。

 

親は無意識に私を精神的に縛り付けて、私が持つ自由な精神で「信じること」を、不可能にしたのであった。

 

 

その親は、というか母親は…と書こうとしたけれど、やめた。

 

大切なのは、自分が何を考えたり思ったりするか(この記事の文脈で言えば、「何を信じるか」もそうだろう)だし、であれば親についてのああだこうだはもう関係ないし、だからこそそれは書かないことにしたところだった。

 

そもそも、だんだんそんなことを考えるのは面倒になってきたし、またそうなるにしたがって最近は、親に対するイライラも小さくなってきた。

 

 

だから結局のところ、自分の「信じるもの」はなんだろう?

 

それは、これまで持っていなかったとは言っても、かといってこれから築き上げなければ持てないものではないと思う。

 

もちろん、これから築き上げられていくものもあるだろう。

 

しかし私にも、苦しみながら一応生きてきた時間はあって、それを「確認」することで今からでも、急ピッチで築き上げられると思っている。

 

今のところ、おそらくまだ1割か2割くらいだけど、少しは出来ている気もする。