アダルトチルドレンの生命力

アダルトチルドレンの克服を綴る日記です。

泣きたくなる気持ちを味わう修行を、クリアした先には

意識付けができるようになった、とでも言うのだろうか。

 

だんだんと、自分が今どこで何をしていて、みたいなことがふと頭をよぎることが多くなった。

 

これが、頭をよぎって自覚するのではなく、いつも自然にそうした状態を受け入れられているようになればいいのかな、と思う。

 

 

またそれは、「アダルトチルドレンである」という自覚ともセットだ。

 

過去が今につながっている、紛うことなき自分が、今ここで何かをしている。

 

等身大の自分とはそういうものだろう。

 

その過去が、毒親の元で育ったということだ。

 

 

この「毒親」とは、ものすごい嫌悪感を与える言葉だなと思うが、同時に、すごく的を得ている言葉だとも思っている。

 

そして等身大の自分と、この「毒親」が結び付けられるとき、私には激しい「怒り」の気持ちが込み上げる。

 

世の中の、あらゆる罵詈雑言を浴びせてやりたい気持ちになる。

 

 

しかし、それは究極の「やり場のない怒り」であることも確か。

 

怒りの感情を親にぶつけたって、どうせ何も変わらないから。

 

そう考える訳はここでは省略するが、最近の親を見てもそれは間違いない。

 

 

また、これが最も大事だと考えるが、親が変わることは今や、さして重要ではない。

 

自分の人生は自分のものであり、であれば変わる必要があるのは自分である。

 

子供の頃はそれができなかったが、今ならそれができるはず。

 

だから、一生懸命に取り組む。

 

親は親で、好きにしたらいい。

 

一人の大人として嫌なことは嫌というが、それ以外は知ったことではない。

 

 

そんな理屈の「やり場のない怒り」が出てきたところで登場するのが、大人の自分である。

 

悲しかったよね

辛かったよね

どうしよもなかったよね

 

過去の自分に、投げかける。

 

小さい頃の、かわいい自分が登場する。

 

すると泣きたい気持ちにもなってくるが、だんだんと心が落ち着いてくる。

 

 

こうして、自分から泣きたくなる気持ちを毎日味わうようにしているわけで、それは修行や苦行に近いように思う。

 

本当はやらずに済むのなら、絶対にその方がいい。

 

 

しかし、これをクリアすれば世の中が違って見える。

 

とても強くなった自分がいる。

 

そんなイメージも、だんだんと出てきているところである。