アダルトチルドレンの生命力

アダルトチルドレンの克服を綴る日記です。

考えや気持ちが自分のものだというのが自然である状態へ

まだまだではないと思うけど、もうちょっとでもない。

 

 

私が、私という人間に自信が持てる、これからもなんとかやっていけると思えるレベル。

 

イコール、普通に暮らしていけるという確信だ。

 

 

とはいえ、アダルトチルドレンの克服に取り組み始めた当初よりは、だいぶレベルが上がったと思う。

 

自分の考えることは自分の考えることであって、それ以上でも以下でもない。

 

かつての私は、自分の考えることや思うことは無視して、他人が私に何を期待しているかを推し量って、従おうとするだけだった。

 

自分の考えることや思うことは、無かったと言っていいだろう。

 

子どもの頃に身につけてしまった悲しき習性であり、病気である。

 

 

それが今は、かつての自分の習性が出そうになると、「いや、お前はどうなんだ?」と、習性を押しとどめるような意識が自然に働く。

 

本来の自分に、引き戻そうと思えばできるという感じだ。

 

だからこの先は、昔の習性が出てこないようになればいい。

 

いつでも、考えや気持ちが自分のものだというのが自然である状態。

 

それを、疑うことのない状態。

 

言葉にするのは難しいけれど、そんなレベルが目標だろう。

 

 

非難はもうやめにしたが、親についてハッキリわかったこともある。

 

私が自分自身の気持ちや考えに気づくほど、それが親とは全然違うのだ。

 

もちろん、私の気持ちや考えは私のものであるし、私にとっては正しい。

 

親自身もまた然り。

 

それ以上でも、以下でもない。

 

結果、世間一般がイメージする「良き家庭」には程遠いが、それもそれで仕方がない。

 

私が生きるためなら、私は自分の気持ちと考えに従って生きればいい。

 

 

それに、もともと「良き家庭」とは程遠い環境で私は育ち、こうなってしまったのだから、今更「良き家庭」とは何をやいわんや、でもある。

 

ただ一つ、私にとっての最後のセーフティネットになっていることだけは感謝しているが、だからといって「良き家庭」になるために私が自分の気持ちや考えを殺す必要は全くない。

 

それは子どもの頃に強いられたことであり、もう金輪際いいだろう。

 

子どもの頃は、家庭を背負おうとしても無理だった。

 

今は、昔も今もそんなことはそもそも無理なんだとわかる。

 

一方で私の人生は私のものだし、その私ができることの中で、社会に貢献しながら生きることができればいいと思う。