アダルトチルドレンの生命力

アダルトチルドレンの克服を綴る日記です。

「俺はかわいい」「それでいいんだ」

「俺は生きている」

 

何かの物事から自分が受け取る感覚に、現実を少しずつ感じられるようになったところで、この言葉がふと浮かぶようになったことは先に書いた。

 

しかし最近は、これに「俺はかわいい」が混じってきている。

 

 

これはたぶん、「さて、自分が持つ思いや考えは、どんなものなんだろう?」と探り始めたところから、そうなりだした。

 

ここでいう「自分が持つ思いや考え」とは、「自分は何をすると喜びを感じるのだろう」のような、自分が何かをすることで現実に影響を与える、能動的態度と結果のことである。

 

 

そして、能動的態度というからには、親と恐怖の支配から離れたところでとる行動でなければならない。

 

これまでは、支配されていた中での行動が常だったわけで、それだと自分が行動を起こしているようでも、実際には自分で行動を起こしているようには思えない。

 

結果、例えば喜びを感じたとしても、それは感じたような気がするだけで、自分の感情とはズレているような違和感も抱える。

 

このようにして、現実を生きている感じがしなくなったのが私の姿であった。

 

 

しかし、「親と恐怖の支配から離れたところ」で私が思ったり考えたりすることは、なんだか雲をつかむようなことである。

 

生きている以上は当然ながら、一応いつも何かを思ったり考えて、何らかの行動を起こす。

 

しかしその時、「自由に思い考えていいんだ」と頭で反駁し、思った通りに行動しても、それが支配から離れたところでできたことなのか、てんで自信がない。

 

 

結局、これまでと変わらないような気もするから、はるか昔のことも思い出してみる。

 

自分が自由に思ったことをやって、嬉しかったり悲しかったり感情が動いた出来事はなかったかと。

 

過去の記憶と、照合できないかと。

 

ところが、思い出そうとしても出てこない。

 

実際にそんなことがあったのかすら、怪しいと考えるようになった。

 

自由にのびのびやれたことなど、なかったのかもしれない。

 

 

そんな中で自然に出てきたのが、「俺はかわいい」であった。

 

 

親と恐怖の支配から離れて行動することは、今のところ、私にとって未知の領域。

 

だから、これから自分でその習慣と感覚を、つかんでいかなければならないと思う。

 

何か行動を起こす時、「俺はかわいい」が頭にあると、「それでいいんだ」と安心して行動できる。

 

そんな気がする。

 

 

「俺はかわいい」などと言葉にすると、気持ち悪く思う人がいるかもしれない。

 

しかし、健常に育っている人も、言葉にしないだけで当たり前に持っている、自分に対する思いだと考える。