アダルトチルドレンの生命力

アダルトチルドレンの克服を綴る日記です。

しんどくても、必死になって頑張っていれば

こんにちは!

 

地味に、ブログタイトルを変えました(笑)

 

 

同時に、ちょっと自分も書くことに対する方向性というか、変えようと思いまして。

 

これまでは、ひたすら書きなぐっているだけでした。

 

それはそれで、小さくない意味があったと思いますが。

 

 

とはいえ、何がしたいわけでもなく、なんとなく、アダルトチルドレン克服のステージが新しい段階に入ったような、そんな意識のただの表れであります。

 

正直に言えば、アダルトチルドレンの克服に取り組み始めて半年ほどで、今は格段にマックスの辛さに襲われている最中。

 

侵入症状と言うのかもしれませんが、すごくありありと、子どもの頃の辛さと悲しみが、出来事と共に蘇ってばかりです。

 

 

これは、しんどい。

 

しんどいけど、自分で何とかするしかない。

 

自分で何とかするしかないしんどさを抱えているのは、自分。

 

子どもの頃の辛さ悲しさを、今思い出して辛く悲しくなっているという点において、過去と今の私は確かな繋がりを持った、一人の人間。

 

大変長い間、生きている感覚が希薄な状態が続いていた私にとって、そうしたことが少しでも実感できたことは、しんどいこともただしんどいのではなく、アダルトチルドレン克服のための重要なプロセスだと思っています。

 

そうあってほしいという、願望かもしれませんが(笑)

 

 

私は、アダルトチルドレンの専門家でもないですし、元々そういうことに興味があって詳しいわけでもありません。

 

自分がそうだから、何とかするために、多少学ばざるを得なかっただけです。

 

本心では、そんなのとは無縁でいたい。

 

当然、なりたくてなったわけではないのですから。

 

 

だから、アダルトチルドレンについて「お前は間違っている」みたいなことを声高に言われてしまうと困るのですが、自分の体験については色々書きだしてみて、自分と、似たような境遇にあってブログを見た人がいたならその人の、応援歌みたいなものになればいいな、となんとなく思っています。

 

私自身、今置かれている状況を含めたあらゆる外見は立派ではないですが、必死になって頑張っているんだし、それでいいではないですか。

 

 

今の状況についてちょっとだけ具体的なことを書けば、しんどいのと同時に、親の価値観考え方から自分を切り離すことの困難さを、えらく感じているところです。

 

そんなところで、また明日、書けたらですが、よろしくお願いします!

最後の最後の罪悪感みたいなものを、あと少しで…

先日、数年ぶりに学生時代の後輩に会った。

 

数年ぶりと言っても、10年経っていたかもしれない。

 

とても久々で、やっぱり歳を取ったんだなと思った。

 

きっと後輩も私を見て、同じことを思っていただろう。

 

 

その後輩も、私と似たような苦労を色々重ねてきた男であった。

 

だから、私が今こうして取り組んでいることを話しても、おおよそ理解する。

 

もちろん、お互い望んでそうなったわけではないし、似たような苦労をしたから交流しているわけでもない。

 

とりあえず、元気そうでよかったし、私も元気に復活したいと思う。

 

 

それはそうと、今日は冷静に、私の子どもの頃の状況はどんなであったかを、振り返ってみたい。

 

と言っても、ほとんどこれがそのままだなというのがあったので、引用して。

 

端的に挙げてしまうと、こういうことであった。

 

  1. 否定されて育った(虐待を受けた)
  2. 褒められる・認められる機会が少なかった
  3. 自分で選択する機会が少なかった
  4. 過保護に育てられた
  5. 子供時代に甘えられなかった
  6. 子供時代に親が話をあまり聞いてくれなかった
  7. 常に親から言い返されていた
  8. 親のDVまたはモラハラを見て育った

『心理カウンセラーの種』, https://be-counselor.com/self-affirmation

 

この中で、ちょっと違うかなと思うのは、8番だけである。

 

リンクにもっと詳しくは書いてあるけど、記事を読んで、それ以外は本当にそのままだったなと思ってしまった。

 

 

なぜそんな状況になってしまったかは、この記事にも書いてあるけど、親の自己肯定感が低いからである。

 

私なりの見方を加えるなら、親が子どもっぽい。

 

今も私は親を間近で見ているけど、その昔と変わっていない言動を見て、この人の下では健全に育つのは無理だよと、納得しかけている。

 

 

「納得しかけている」としたのは、最後の最後に残る、罪悪感みたいなものがあるからだ。

 

親を、そんな風に決めつけてしまうことへの罪悪感。

 

しかしそろそろ、そんなものは払拭してしまいそうだけど。

 

どう論理的に考えても、私が健やかに育つのは無理なのである。

 

 

ちょっと話が飛躍するけど、中学生の頃だっただろうか、そんな親に対して私は、徹底的に無視の態度を取るようになる。

 

殴りかかりこそしないものの、殴りたい気持ちで一言も話さなくなった。

 

それは、当時はそこまで明確に意識していなかったけど、「お前、なんかおかしいんじゃないのか」という、無言のアピールであった。

 

そんなアピールをしたところで、理解することはできない親であったけど。

 

 

そんな記憶にもフタをしていて、しばらく思い出すことはなかったけど、ここ最近の一連の記憶の掘り起こしで思い出しては、私はそうするほかになく、正しい対応を取ったと思うのである。

 

これについても、最後の最後の罪悪感みたいなものは、まだあるけど。

 

とはいえ、もうちょっとで払拭しそうだ。

 

どう考えても、先に挙げた8つ(のうちの7つ)の状況は、おかしかったのだから。

 

一つ一つ思い出されることは、今日は書かないけど。

 

 

話は逸れるけど、こんな風に親について書いても、もう怒りの感情はなくなってきた。

 

怒りがあったところで、こんな私を親が理解できるわけでもないし、そもそも理解できないような親だからアダルトチルドレンが生まれるのである。

 

これは、いい傾向だろう。

 

一つの壁を、クリアした気がする。

 

ただ、そうであったとして、今の私については現実的な問題がまた一つ、生まれることになるのである。

 

これについては、機会を改めて書きたい。

瞑想して、眠れなくなってしまったか?

ここ何日か、寝る前にインナーチャイルドを癒す瞑想動画を流している。

 

聞こえてくるのは、ヒーリング音楽と音声のガイド。

 

私はガイドに従って、子どもの頃をイメージしたりする。

 

 

はじめたころは、と言っても数日前だけど、流している間にほとんど寝てしまい、そのまま朝までぐっすり。

 

これはいいかもしれないと、続けた。

 

しかし、子どもの頃を思い出すと、トラウマとつながってしまうせいだろう。

 

興奮状態になってしまうようだ。

 

うとうとしても、眠りに入ることはなくなった。

 

昨日などはいざ寝ようとしても、しばらく寝付けなかった上に、起きてもぐっすり寝た感がまるでなかった。

 

 

眠りが悪くなるのは、よくないだろう。

 

しかし、効果を含めて全く悪いことかと言えば、そうでもない気がするから、やめようかどうか迷う。

 

日に日に、過去から今に続くことの気づきや、「自分は自分でいいんだな」と思ったりすることが、増えていると思うのだ。

 

それに、どうせ動画を流さなくたって、同じように、寝る前は子どもの頃をイメージしたりするだろう。

 

今夜はまた、動画を流してみよう。

 

それで眠りに支障が出るようだったら、一度止める。

 

 

一方で、最近の日中の私は、かなりぐらついている。

 

「私はこれでいいのだ」と思うような時もあれば、全く逆になってしまう時もある。

 

そしてどちらにしても、ずっとわけもなく興奮状態のような気がするのだ。

 

なんだか色んな所がアンバランスで、総じて、自分に対する信頼がない。

 

ちょっと時計の針が進めば、どんな精神状態になるのか自分でも予測がつかないのである。

 

 

ちなみにこれは、何か周りであった物事に対する反応ではなくて、ちょっと横になって頭を空っぽにしたりとか、ノーマルに近い状況になった時のことである。

 

良い方向に変化が起きている過程の一部だと思いたいけど、この状態のままで本格的な社会復帰は無理であろう。

 

ぐらんぐらん揺さぶられているだけで、かなりのエネルギーを消費していると思う。

 

大したことをしていなくても、その割にかなり疲れてしまう。

 

 

これは何とかしたいけど、何とかしようと思って何とかなるものでもないと、うっすら感じている。

 

大変だけど、今は仕方がないだろう。

親離れした私の心についての問題

世の中は愚痴や文句が多くて、暗い。

 

私はずっと、そう信じていた。

 

 

子どもの頃の家が、いつもそんなだったから、世の中みんなの家もきっと同じなんだろうと思っていた。

 

 

ところが、そんな私の認識は、間違っていたらしい。

 

愚痴や文句が全くない人は稀有かもしれないけど、家庭の中で日頃からそれを当たり前のように吐く人は、お世辞にも立派な人とは言えないらしい。

 

まして、子ども相手にそんなことをしたり。

 

もちろん、私の親のことである。

 

 

世の中を暗いと信じていたというのは、見方を変えれば、そんな世の中しか私は知らなかったということだろう。

 

常に「暗い」というフィルターを通してしか、世の中を見ることができなかった。

 

 

では、そんな私が新たに知った世の中というのは、どんなようなものなのか?

 

実はそれが、まだ定かでない。

 

いや、だいたいはわかっているのだけど、全然我がものになっていない。

 

わかるのとできるのとは違う、みたいな状態である。

 

 

そんな中にあって、私は今、自分の中で当たり前のように出てくる思考を、常に疑っている。

 

「自動思考」とも言うらしいけど、とにかくそれを振り返って疑う。

 

「これは親の価値観や思考回路であって、実は何の根拠も無いではないか?」や、「自分自身は、本当にそう思うの?」みたいなことを、時間があれば常に反省している。

 

すると、やっぱり自分の思考はただ親をなぞっていることが多いと思う。

 

反省しなかったならば、さも当然のようにそうなり、またそれを疑うこともしないであろう。

 

なんとなく自分のものではないという違和感を感じても、結局スルーしてしまう。

 

事実、スルーしたままつい最近まで生きてきたのが私である。

 

 

しかしこの、ただ親をなぞっただけの思考に気づくのは、さほど難しくない。

 

ところが、ではそれに代わる私本来の心のありようや思いはなんだろう?と考えた時、とても混乱してしまうのだ。

 

もちろん、頭に浮かぶものはある。

 

ただ、それが本当に私本来の思考から出たのかは、自信の程がかなり脆弱なのである。

 

胸を張って言っていいものなのか、迷いが生まれるのだ。

 

 

理由は、これまで長きにわたり、私本来の心のありようや思いなど、亡き者にしてきたからだろう。

 

これは、親離れした私の心についての問題であり、おそらくとても重要な問題だろうけど、解決の糸口はまだまるで見えていない。

無理して回避をしない、回避行動を取っていた私

今週初めのEMDRの後に顕著になった、胸の痛みや息苦しさ。

 

これは、トラウマ反応と考えてよかろう。

 

 

今それは、少し治まってきた。

 

しかしその後は、自分がこんな状況に遭わなければならないことについて、たいそう悲しい気持ちに襲われるように。

 

それを全く知らず、昔と変わらない毒親ぶりを見せる親を見ると、「てめぇ絶対に許さないからな」と言いたくなるものである。

 

怒りの気持ちではなく、復讐を楽しんでやりたい、みたいな感じで。

 

 

親に対して持つ気持ちがあるとするなら、アダルトチルドレンさえ克服できれば、残酷でもなんでもいいのだ。

 

ただ、怒りの気持ちはよくない。

 

怒りは、まだ親に支配され振り回されていることの証だからだ。

 

私の場合はここまでの過程において、怒りはほぼなくなった。

 

 

それはそれとして、また別のトラウマ反応を、ここ数日間で強く実感した。

 

これまで、自分でも気づかなかったトラウマ反応。

 

それは、「回避」である。

 

 

私は、人に非難されることを強烈に恐れて、これまた強烈な回避行動を取ってしまっている。

 

いや、表向きは回避していない。

 

しかし、無理して回避をしていないのである。

 

体と心は強烈に回避しているのに、無理してやる。

 

無理をしているから、心がボロボロになってしまっていたのだ。

 

 

何を回避しているかというと、端的には仕事である。

 

心と体は強烈に仕事を回避しているのに、無理をしてやっている、ということだ。

 

 

ただ、どう考えても何らかの仕事はしていなければならない。

 

だとすれば、無理してやっているという状態をなくす=トラウマ反応をなくす、しかあるまい。

 

なお、ここで言う無理してやるというのは、仕事の適不適とは関係なく、どんな仕事であっても、というレベルのことである。

 

 

とはいえ、回避行動が消えた状態、つまりトラウマが消えた状態というのを、全くイメージできない。

 

そしてそんな自分を顧みる時、アダルトチルドレンの克服は無理なのではないかと、とてつもなく悲観的になる。

 

絶望すら感じる。

 

 

その他、価値観のことで頭が混乱したりなど、とにかくこの一週間は重症であった。

 

またこの一週間と言わず、私はかなり重症なアダルトチルドレンである気もしてきた。

 

 

そんなこんなではあるけど、どんな困難があろうと、私は「普通に暮らせるようになる」決意である。

ずっと見ないようにしていた辛い記憶が、色鮮やかに再生される

EMDRは、トラウマを解消するために行っていること。

 

しかし、今の私はそれで心身がおかしくなっている。

 

 

それは、効果がないのではなく、大きなトラウマを扱っていながら一回の時間が限られているために、尻切れになってしまうからだ。

 

効果の本当のところは先生が判断することであり、あくまで私の感じでは、ということになるけど。

 

 

ただ、今のトラウマは私自身も想像できなかったほど強力で、セッション中に出来事の記憶そのものがありありと、芋づる式に登場してきたのだった。

 

尻切れになったら一応それを箱に入れてフタをするのだけど、その後どうしてもボーンっと勢いよくフタが開いてしまい、記憶が出てきてしまうのだ。

 

ずっと見ないようにしていた辛い記憶が、色鮮やかに再生されてしまう。

 

それで私は、胸が苦しくなる。

 

 

この状態の解決は次のEMDRを待つしかないと思いつつも、あまりにも悲しくて胸が苦しくなるので、昨夜は寝る前にインナーチャイルドを癒すというYoutubeを流して、瞑想した。

 

辛さが完全に消えるわけではないけど、これはこれで、いいんじゃないかと思ったり。

 

 

何はともあれ、最近は何度も書いていることだけど、この悲しさ、辛さ、しんどさは、乗り越えていかなければならない。

 

私がこうなったのは、親の責任が大きい。

 

ただ、結局は私の人生であり、アダルトチルドレンは私が克服しなければならないことなのだ。

胸のドキドキ、オンリー

胸のドキドキは、続く。

 

正直、しんどい。

 

 

私はカウンセリングに行って、苦しくしんどい思いをしているわけで、もしかしたらそんなカウンセリングに意味はあるのかと、思う人がいるかもしれない。

 

実のところ、私もこのしんどさに対しては、なぜお金を払ってこんな目に合わなければいけないんだと、恨めしい気持ちがないでもない。

 

しかし、私は一時の癒しが欲しくてカウンセリングを受けているわけではない。

 

苦しいは苦しいのだけど、目標をもってやっているわけで、言ってみれば試合のために厳しい練習を課すアスリートと似たようなものだと思う。

 

 

また、ドキドキの他、起きている時は常に頭がカッカしている感じもする。

 

そしてこうした症状から、トラウマや複雑性PTSDに関するあれこれを調べてみたところ、ほとんどすべてが私の経験と一致するのである。

 

 

私はトラウマにフタをし、思い出さないようにした。

 

生きるために、その必要があったから。

 

しかしそうすることで…と続けようとしたけれど、苦しくなったのでやめておこう。

 

 

もちろん、辛い状況は早く何とかしたい。

 

ただ、その方法を持ち合わせているわけではない。

 

あの時悲しくて辛かったのも、今それを振り返って同じ思いがぶり返すのも、確かに私であることを、ただ強く実感することしかできない。

 

そして、胸がドキドキするのである。

 

 

なんだか、胸のドキドキについてしか書いていないけど、どうしても感覚がそこに集中してしまうためであり、この辺で一旦止めておこう。