アダルトチルドレンの生命力

アダルトチルドレンの克服を綴る日記です。

理解しようとしてあげること、認めてあげること

こんにちは!

 

ケミオです!

 

 

関東はいい天気ですが、まだまだ寒いですね。

 

朝、ちょっと外を歩きましたが、寒さはまだ冬そのものでした。

 

 

それはそうと、昨日の記事で私は、このように書きました。

 

「10年単位で続いてきた認識や思考を変えるのは、簡単ではないんだなと実感しています。」

 

 

このことについて、別の方面から見た事実がこれまた強烈なことに気づきまして…。

 

一言で言えば、リミットです。

 

 

あれはできない、これしかできない、どうせこんなもん、望んではいけない、これで満足しなければならない…等々の、行動や思考に自らかける、リミット。

 

紛れもなく、私が子どもの頃から、母親が口癖と行動癖としてきたものです。

 

これに私は、昔も今も表向きは反発していますが、裏では強烈にこの癖をなぞっています。

 

アダルトチルドレンについて色々情報を見ている中で、今日、ハッと気づきました。

 

 

もちろん、今の私は大人ですし、何かをやろうとしても大人としての現実的なできるできないの判断は求められると思います。

 

しかし、ここで書いているのはそれ以前の話です。

 

単純に「これいいな」みたいなことでも、そう思うことすら制限してしまうリミット。

 

もちろん、行動に移すこともありません。

 

自ら心と行動の身動きを取れなくしてしまう、強烈なリミットです。

 

 

トラウマが完全に取れれば、このリミットも解除されるのか。

 

またはトラウマの解消とは別に、何か訓練をする必要があるのかは、現時点ではわかりません。

 

ただ、これは生きづらさに直接的につながる大きな原因であり、傷もすごく深いことを実感しました。

 

 

一方で、このことに限らずですが、自身の特性や問題の原因を、今になって親に結び付けることについて、本当は嫌だなと言う気持ちもあります。

 

「自分を育ててくれた親だから」とかそういう気持ちでは全くなく、いい歳して自分が子供じみているように思えますし、だからこそ他人のせいにするのもいい気がしないんです。

 

しかし、事実は事実として確定しないと、アダルトチルドレンを克服し得ないことは間違いないと考えています。

 

その上で、私が例になったこのようなリミットを、子どもにかける親ってどうなんでしょうかね…。

 

私は、最低だと思います。

 

 

現実的なできるできないの問題ではないです。

 

子どもはもちろん、大人だって考えることや思うことは自由です。

 

まして子どもの可能性は、大人のそれと比べてとても大きい。

 

それをことさら否定するようなことばかりで、取り上げてしまうのはひどいです。

 

少なくとも理解しようとしてあげること、認めてあげることは、できるはずです。

 

 

「理解しようとしてあげること、認めてあげること」

 

これが、子どもの頃の私が本当にしてほしかったことであり、必要としていたことだったんだと、今日、改めて気づかされました。

 

また一つ、進歩したでしょうか?

 

 

お疲れさまでした。

安心や安全を感じられる家庭がなかった私にある、壁

おはようございます!

 

ケミオです。

 

 

今日はお休みの日ですし、朝から書いてみます。

 

夜は、ダルビッシュと大谷を見なければならないですし…。

 

 

さて、昨日私は、「自分はダメで認められない存在である」という自己認識について、転換が起きたことを書きました。

 

実のところ、100%そうなったとはまだ言い切れない気もするのですが、いづれそうなるだろうから心配なかろうと思っています。

 

 

一方で、転換前の自己認識を一言で言い表せば、「自己肯定感がない」ということになると思います。

 

自覚もしておりますが、私にそれは全くありませんでした。

 

ゼロ。

 

最近になってようやく、それがおかしいということを、実感として認識し始めたくらいです。

 

 

では、どうあればそんな状態を避けられたのかというと、ネットで調べれば同じことばかりが登場します。

 

子どもの頃に、安心や安全を感じられる家庭があること。

 

たぶんこれは全くその通りで、これも自覚がありますが、家に帰ればダメ出しや他人と比較されることばかりだった私は、家庭で安心や安全を感じられることがありませんでした。

 

今度はいつ、どんなことを取り上げて自分を否定されるだろうと、いつもビクビクしていました。

 

安心や安全を感じられる家庭がなかった私が、結果、自己肯定感をつけることができなかったのは、実体験として間違っていないと思います。

 

 

とはいえ、昔のことはもう仕方がないです。

 

事実を今さら、変えようがありません。

 

変えられるのは、今の自己認識です。

 

自己肯定感を、自ら育まなくてはならないでしょう。

 

 

しかし…これが本当に難しい気がしています。

 

昨日、子どもの頃の環境については、私自身は全く悪くないことが明らかになりました。

 

それはそうなんですが、では事実とは逆に私は、「家庭できちんと認められ、自らをまっとうに肯定すべき人間なんだ」と即座に考えていいのかと思えば、そこにはまだギャップがある気がするんです。

 

話が飛躍しているというか。

 

体験がないから、イメージがつかないのもあります。

 

それなら理屈で補えればいいのですが、理屈もまだ通っていない感じです。

 

 

この自己肯定感が、大きな壁だと思っています。

 

認められること、安心できること、自己肯定できる自分など、イメージしたいのにできないことがもどかしく、忸怩たる思いがします。

 

カウンセリングもEMDRも行っているので、いずれなんとかなることを信じてはいますが。

 

 

アダルトチルドレンの克服、またその中身として10年単位で続いてきた認識や思考を変えるのは、簡単ではないんだなと実感しています。

 

あっという間にお昼の時間になりそうですが、今日も良い一日を!

「ダメで誰からも認められない」自己認識は、呆れるくらい単純な話へと転換した

こんばんは!

 

ケミオです。

 

 

昨日のEMDRから今日にかけては、割と調子がいいです。

 

ただ、その前が極端に悪かっただけに、アップダウンが不気味で怖さを感じています。

 

一寸先は、またダウンかもしれない。

 

そんなことが、常に頭の中にあります。

 

 

一方で、4日前に書いたような、私が子どもの頃にした反抗や無視、そして母親が家を出ていったことについて、やはり私は間違ってはいなかったんだという思いが増していきました。

 

この記憶についてはずっと、私がダメで誰からも認められない存在だから、このようなことになってしまったのだという認識とセットでした。

 

それが私を長い間、苦しめていたんです。

 

 

しかし、昨日のEMDRを経て、今日、転換が起きた気がします。

 

子どもの頃の私は、親から認めてもらえた記憶がほぼありません。

 

「ほぼ」と言うからにはちょっとはある、ということですが、圧倒的に多いのがダメ出しだったために、褒めたり認めたりする言動が親から出ても、それを素直に信じることはできませんでした。

 

また、ダメ出しはよく、他人と比較することで行われました。

 

「〇〇君はできるのね、すごいのね」みたいな評判とセットです。

 

授業参観、先生の家庭訪問、通知表とすべての行いが母親にインプットされるたびに、私は他人との比較とダメ出しをされ続け、それがそのまま、自分自身についての認識にもつながっていきました。

 

 

そんなくり返しから、私の反抗も日常的になっていき、いつしか完全無視へとつながっていくのです。

 

ただ、反抗と無視をしながらも、それが「私はダメで誰からも認められない存在である」という自己認識を、変えてくれるものではありませんでした。

 

 

それから少し年月をおいて、母親が家を出ていくことになり、以後の私に起こる出来事のほとんどに、母親は関係なくなりました。

 

しかしその間もずっと、私の自己認識はずっと変わらないまま、昨日まで来ていたことになります。

 

 

では、そんな自己認識にどんな転換が起きたかというと…呆れるくらい単純な話に聞こえるかもしれません。

 

結論から言うと、と言うより結論しかないのですが、「自分を否定ばかりする人と一緒にいたくないと私が思うのは、当たり前だ」という認識への転換です。

 

一般社会でそんなことばかりの人がいたら、普通、相手が離れていくと思います。

 

至極単純な話だと思いますが、母親はそれを、家庭で被支配者の立場である私が離れられないのに甘えて、やり続けてしまったんではないかと考えられます。

 

だとしても、その甘えが信じられないのですが、とにかく私も当時子どもでありながら、一人の人間です。

 

「なぜお前に、そんなに否定されなければいけないんだ」と思っても、全くおかしくないと考えます。

 

 

なお、この思いを引き延ばせば、「そんなに俺のことが嫌なら、一緒にいなければいいじゃないか」とつながっていきますが、そこはその通りで、実際に母親は家を出ていきました。

 

 

そんなこんなですが、私を長い間苦しめていた、暗黒の子どもの頃の記憶は、この転換でいいと思います。

 

事実も、記憶も、書き換えていません。

 

変わったのは、認識だけです。

 

転換後の話が単純すぎて、変わらない記憶に20年以上も苦しめられていたのが悔やまれますが…。

 

 

今日は、最初から最後まで大真面目に過去と今を振り返っただけの話でした。

 

お付き合いいただきまして、ありがとうございます。

 

今日もお疲れさまでした!

あなた、それは無理だよ、普通じゃないよ

こんばんは!

 

ケミオです。

 

 

今日は、EMDRでした。

 

かれこれ3度くらい続けているトラウマについて、今日もフィニッシュには至りませんでしたが。

 

ただ、今日については最初から、終わるとは思ってはいませんでした。

 

 

一方で、前回ひどかった体調悪化は、今回はありません。

 

疲れはしましたが、それは仕方ないです。

 

 

そしてちょっとだけ、今日の脳内で起こったことを記しておこうと思います。

 

子どもの頃の母親に向かって、今の私が、「あなた、それは違うでしょ。おかしいでしょ」と注意するシーンがイメージされました。

 

怒ってはいません。

 

諭すような感じです。

 

そして、子どもの私を、母親から引き離そうとしました。

 

 

また、今の会社の代表や、元妻、学生時代の友人、中学校の時の野球部の同級生などが頭に浮かんできました。

 

そして、母親の対応に困っている私を知った彼らは、次々と私に言いました。

 

「あなた、それは無理だよ。普通じゃないよ」

 

 

これらは、EMDRの中で色んなイメージが入れ代わり立ち代わりあった中の、一部です。

 

中には、胸が痛く息苦しくなる辛いイメージもありましたし、今日の半分以上は混乱したイメージをさまよっているような感じでした。

 

ただ、以上の2つは腑に落ちるというか、色んな人が思い浮かんだりもしましたけど、「やっぱり普通、そう考えるよな」という感じで印象に残りました。

 

なんとなくではありますが、「ん?これで…いいような気もするが…」という想念です。

 

まだフィニッシュしていないので、インターバルの2週間、また次回でどうなるかは全然わかりませんが。

 

 

それはそうと、今、パリ五輪の出場選手が決まる水泳のレースを見ていました。

 

先ほど女子100メートルバタフライの決勝が終わったところで、平井瑞希選手と池江璃花子選手が代表に決まりました。

 

おめでとうございます!

 

今日は選抜高校野球も始まりましたが、やっぱりスポーツ競技に一生懸命な選手たちを見ると、すごいな~と清々しい気分になります。

 

 

しかし、恥ずかしながらですが、ちょっと前までの私にはこの「清々しい」という感覚が、まるでなかったです。

 

スポーツは見ましたし、応援しているチームや選手ももちろんありました。

 

ただ、その見方が「相手を徹底的にぶちのめせ」じゃないですけど、相手を批判したりそれに近いような、「私怨」が入ったような感じでした。

 

「私怨」といっても、応援する方を外から見て肩入れしているだけで、変な話ではありますが。

 

 

でも、そういうのは良くないというか、やっぱりさもしいです。

 

我ながら。

 

こういうところも、なんとなくよくないと思いながらもそうせずにはいられなかった、アダルトチルドレンの苦しさの表れだった気がしてなりません。

 

 

とはいえ、これはそんなに深く考えたことでもないですし、なんでもかんでもアダルトチルドレンに結び付けるのは間違っているかもしれません。

 

ただ、どうであれ、今日の水泳を見て思った感じでいいとは思うんです。

 

今日もお疲れさまでした!

アダルトチルドレン克服後の世界を目ざしながら、どうしてもそこを拒否?

こんにちは!

 

ケミオです!

 

 

アダルトチルドレンの克服に取り組んでいる私は、否応なしに過去から続く自分というものを考えさせられます。

 

そうした中にあっては、気分だったり、物事の見方だったりが、大きく揺れることがあります。

 

したがって、ここで以前に書いたことと矛盾するようなことを書くことがあるかもしれませんが、そこはご容赦頂きたいと思います。

 

ある課題をクリアしたら、違う課題が登場し、それをクリアしようとすると前にクリアした課題も一度リセットされる…みたいな感じの繰り返しです。

 

それでも、トータルで見たらちょっとずつクリアした課題は増えていってる…というような形でしょうか。

 

 

克服は簡単ではないですが、本音で言えば当然、アダルトチルドレンは早く終わらせたいです。

 

世の中一般的に、今の私が生産的でないことは、間違いありません。

 

アダルトチルドレンでなければ全くやる必要のない取り組みを、今の私はしているという自覚があります。

 

こんなことを言ってしまうと、私を含むアダルトチルドレンにとっては酷かもしれませんが、実態認識としては間違ってはいないと思います。

 

ただ、アダルトチルドレンが自分の責任でそうなっているわけではないことは、アダルトチルドレンであるなしにかかわらず、誰にも知ってほしいことだとも思います。

 

 

しかしまた一方で…です。

 

何をもってアダルトチルドレンを克服したことになるかというと、当の本人である私の場合ですが、よくわかっていないんじゃないかと思うんです。

 

それがどんな世界であるのか、調べたりしてイメージすることはできます。

 

しかしながら、それを自分事として考えると、どうしてもあり得ない世界に見えてしまう。

 

例えば、というか典型的ですが、「私が愛され受け入れられる世界」です。

 

大人になるステップを上り始めたその時から、そんな経験もなかったし想像だにしなかったそんな世界に、自分がいることはどうしても想像できない。

 

そんな世界は、どう考えても自分に似つかわしくない。

 

わかっていないというより、アダルトチルドレン克服後の世界を目ざしながら、どうしてもそこを拒否してしまうアンビバレントな状況と言った方が、正しいかもしれません。

 

 

今日は他に書こうと思ったことがあったのですが、ここまでにかなりの字数を書いていました。

 

明日はEMDRです。

 

先週のダウンを考えると、ちょっと怖い…。

 

でも、なんとかやり通します。

 

今はきっと、大きなヤマ。

 

 

今週も、よろしくお願いします!

負う必要のなかった、子どもの頃の傷や負い目

こんにちは!

 

ケミオです。

 

 

やっと、温かくなってきました。

 

まだ朝晩は冷えますが、もうすぐ春ですね。

 

個人的には、自分の外の動きに、今年は目を向けられそうにないですが…。

 

 

アダルトチルドレンの克服の大変さを、実感しています。

 

あっけなくできた人もいるのかもしれませんが、ここまでのところ、私にとっては簡単ではないです。

 

 

自分の内面と、強引にフタをしていた過去に、「これでもかっ!」と向き合う。

 

すると、やっぱり溢れる思いとか、そういうのがあるんです。

 

私は泣くまではいかないのですが、やはり辛く悲しい気持ちになります。

 

子どもの頃の心境が思い出されても、その後に続いた苦しみや困難を考えても。

 

胸が痛くなり、呼吸が浅くもなります。

 

そうした身体症状を自覚すれば、過去がどれほどきつかったかということと、そのトラウマがどれだけ強烈かということを、否応なく実感させられます。

 

 

ただ、今は私をそんな風にした親に対する怒りは、まだゼロとは言い切れないですが、ほぼありません。

 

アダルトチルドレンの克服に取り組み始める前までは、突然むしゃくしゃする怒りがやってきていたことを考えれば、かなり進歩したと思います。

 

そして、その進歩の過程においては、親の見方に対する変化もあります。

 

 

今思えば、取り組み前までは「親は正しい、絶対だ」という潜在意識がありました。

 

またその潜在意識は、「私は弱くみじめで、自分の希望など持ってはいけない存在だ」といったような、これまた潜在意識とセットです。

 

 

これらが揺らぎ始めているのがちょうど今の段階だと思いますが、すると親そのものが絶対ではなく、客観的に見え始める。

 

するとこの人(=親)は、私に対して子どもの頃にしたようなことをする以外、できないんだろうなと思い始めました。

 

 

当然、過去は覆すことはできません。

 

一方で、今から過去の反省を求めるようなことは、やろうと思えばできます。

 

 

しかし、求めたところで、理解できる親ではないんです。

 

口では「悪かった」などと言うと思いますが、本当の意味で理解しないだろうというのは、昔と全く変わらない様子の親を見ても、そう考えざるを得ません。

 

そもそも、言って理解できる人だったら、私がアダルトチルドレンになることもなかったんだろうと、今では思います。

 

 

また、そんなことを考えると、私が過去に負った傷というか、負い目というか、そういうのも傷でもなんでもないんではないかと、思い始めています。

 

親に毎日のように反抗したり、徹底的に無視をしたり。

 

「そんなこと、したくはなかったのに」という心の傷と負い目が、今思えばあったんです。

 

でも、親がどうにかしていたんだということになれば、そんな傷や負い目は全く必要のないものです。

 

むしろ、私は子どもながら生きるために、必死で正しいことをした。

 

もちろん、そもそもしたくないことには変わりはなく、本来は全く不要なことです。

 

ただ、私は何も間違っていなかった、ということは言える。

 

 

なお、反抗や無視なんていうものは、思春期くらいの子どもがすることは、全く珍しくないでしょう。

 

ただ、私の経たそれは、そういう次元とは全く異なります。

 

とにかく、親の幼稚さに付き合わされて、そうなってしまったんです。

 

今日は割愛しますが。

 

 

今の私は、色々辛抱です。

 

でも、くじけないようにします。

 

 

お疲れさまでした!

これまで生きてきた前提となる世界観を、根底からひっくり返す大革命

こんばんは!

 

 

いきなりですが…今日は疲れました。

 

昨日のしんどさとは違う、どーっとした疲れ。

 

 

とはいえ、何か他人から見てすごく生産的なことをしたとかではないんです。

 

今日はずっと、仕事はぼちぼちしていましたけど。

 

 

何に疲れるのか、色々考えました。

 

疲れるということは、エネルギーはものすごい使っていると思うんです。

 

 

たぶん、思考の大転換が起きているからではないかと。

 

いや、起きているというより、精一杯起こそうとしている、と言った方が正しいような気がします。

 

 

これまで、親の影響から「自分はやりたいことや希望を持ってはいけない」だったり、「自分は誰からも愛され認めてもらえない」のが当たり前だった私。

 

それがです。

 

「自分は、やりたいことならやっていいし、希望を持ってもいい」

 

「自分は、愛され認めてもらえる存在である」

 

そんなことを、時間があれば頭で反駁しています。

 

仕事の合間でも、ご飯を食べている時でも。

 

 

この認識は、これまでまるで考えたことがなく、だからこそ全く想像がつかなかった世界観というか、そういうものでした。

 

それが、「もしかして、そんな世界があるのか?」と言う問いかけから、「もっと具体的に、どんな世界なのか?」という想像へと向かっていきます。

 

今のところはその世界の一割も、まだ見えていないかもしれませんが、とにかく脳みそをフル回転させて、もっと見えるようにならないかと考える。

 

その世界はきっと、私がこれまで生きてきた前提となる世界観を、根底からひっくり返す大革命だと思うんです。

 

それだけ大変で、かつ個人的に前代未聞の取り組みに多大なエネルギーを使っていて、疲れてしまうのだと思います。

 

 

また、昨日は「頑張っているなら、それでいいではないですか」と、前向きなことを書きました。

 

そのおかげかどうかは確たる自信はないのですが、今日はなんとなく少しだけ、いつもより気分がよかったです。

 

ただ、因果関係に関係なく、前向きで気分がいい方が、良いに決まっていますよね。

 

これも、暗く愚痴や文句ばかりの親の生き写しみたいだった私には、理屈上はそのとおりだと言えますが、自分自身においては現実感のない体験でした。

 

 

親の世界観から切り離された、私独自の世界観と体験。

 

そういうのを、地道に積み上げていく必要はあるのかもしれません。

 

 

今日ここに挙げたのは、私の世界観のほんの一部を、切り取っただけに過ぎないと思います。

 

世界観のほとんどは、まるで見えてないような気も…(笑)

 

そもそも独自の世界観を、持たないようにされていたわけで。

 

それを考えるとちょっと悲しくなりますが、今さら何かを責めてもしょうがないですね。

 

今日はお疲れさまでした!